魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

読書、ジム、シール

今回は雑記です。

 

読書

ここ数日特に寒かったので結構本を読んでいた。

 

積読がめちゃめちゃ多い。僕は読書が本当に好きというわけではないので、ちょっと読んでは別の本に移り、またちょっと読んではさらに別の本に移り……というのを繰り返しまくって中途半端に読んでる本だらけになってしまう。(これはみんなそうなんだろうか?)

その上ブックオフに行くとちょっと気になっていた本が200円とかで叩き売りされているので思わず買ってしまう。しかも10月に文芸フリマなるものに行ってさらに読むべき本を増やしてしまった。今は電子書籍の時代なのにどんどん本棚に本が溜まっていく。

 

また、技術書やビジネス書や試験の参考書など、読むべき本を読みたくないがために別の本を買ってそれを読まなきゃいけないことを言い訳にしている(言い訳にならないんだけど)ので、全然健全じゃない読書をしている。

こういう気持ちでいることも僕が本当の読書好きではないことを表しているのでなんかダメだと思う。

 

10月に行った文学フリマの出展者たちは恐ろしく読書や執筆が好きなんだろうなと、尊敬とも、妬みとも、畏れともいえるものを感じた。

どの作品の最後にも「感想くれたら嬉しいです」というURLとかQRコードとかメールアドレスが貼ってあって、一読者としてコレに感想を送らなければならないのだろかという義務感に苛まれて正直辛い。

 

でも、もしも逆の立場だったら感想もらったら嬉しいだろうなと思って、少し感想を考えてみても「面白かったです!」とか「〇〇の部分が良かったです!」とかセブンイレブンの弁当くらい底の浅い感想しか出てこないことに落ち込むし、それに10月に買った本の感想を今送ると2ヶ月間積読していたことがバレてしまうような気がしてやっぱり送るのが苦しい。

 

ジム

続いているようでかなりサボっている。月々7,500円くらいするので僕にとってはかなり高い。

週に2回行けば1回につき1,000円以下で利用している計算になるので、平日1回休日1回を目標に通っているのだが、残業が増えてきたり、寒くなってきたり、ちょっと元気が出なかったりするとサボる。サボると月々7,500円という数字が頭の片隅から圧迫してくる。

 

あとジムにはいろんな人がいて、中にはマナーが悪いというか周りが見えていない人もいる。

一度あったのは、僕がマシンを使おうとしたときにそのマシンの重りが無くなっており、どこを探しても無いので困っていると、目の前でおじさんが僕のマシンの重りを体にぶら下げて“けんすい”を始めた。

けんすいをするときに僕のマシンに取り付けるべき重りはおじさんの股間から垂れ下がる形となり、おじさんの上下運動に合わせてガチャガチャと重たい音を出していた。重りは黒色であり、ぶら下がるおじさんにぶら下がるソレはアレを連想しなくもない。

 

僕はおじさんがけんすいをやめた後もその重りを使う気にはどうにもなれず、結局そのマシンを使うのを諦めた。というかすぐ帰った、おじさんが気になって全然集中できなかった。

 

シール

最近は色々と自己肯定感を上げる試みをしており、ネットで見た「いいこと日記」なるものを書いている。その日の良いことを5個だけ書き出すというものだ。内容は「仕事が早く終わった」「肉を食べた」「アイスを食べた」「本を読んだ」「爪を切った」とかそんなレベルの物事を書いていくだけだ。

 

この日記にシールを貼ったらテンション上がるだろうなと思い、ドンキでムーミンのシールを買って、ペタペタ貼っていた。

ある日部長に嫌がらせに近いことを指示されたのでイライラした僕はその日の日記にスナフキンのシールを貼って僕を肯定させるセリフを言わせた。これが自分でもちょっと面白かったのでツイートしたら思いのほかバズってしまった。

雑に汚い字で文字を書いたので「文字が震えている」とか指摘されてちょっと恥ずかしかった。それは怒りに震えてるとかではなく元々字が下手なだけです……。

 

想像以上にバズると結構怖い。ツイッターってこんなに人がいたんだねってなる。ただ、承認欲求には敵わずツイートを消すようなことはしない。ここが僕の底の浅さである、セブンイレブンの弁当くらい浅い。

どうしてバズったのか考えてみたが、おそらくみんなスナフキンのことが好きなんだと思う。スナフキンにそれっぽいこと言わせればいっぱいバズるんじゃないか、おそらくスナフキンは「部長」なんて言葉絶対使わないと思うが。

 

ところで、原作のスナフキンは思ったよりも気の利いたことをいうキャラではないらしい。YouTube岡田斗司夫が言っていたが、日本人は自分の中に理想のスナフキン像というものを持っていて、しばしば原作を置いてけぼりにして自分の中のスナフキンを優先するというのだ。これはその通りかもしれないと思った。