魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

チ..〜乳首の隠蔽について〜

久々のブログになってしまった。

今回は夏のとある問題について書きたいのである。

 

日本はそろそろ夏本番である。今年も猛暑になるのだろうか? 外に出るときはなるべく涼しい格好をして気をつけなければならない。

しかし、涼しい格好を求めるあまり、我々おじさん達は恥ずかしい姿になりがちなのだ。あなたも道ですれ違うサラリーマンをよく見てほしい……乳首が透けていないだろうか?

注意深く観察すると、乳首が透けたサラリーマンが世の中には結構いることに気付くはずだ。

 

ポッチポッチは防げない

かくいう私も、乳首が透けがちなサラリーマンの一人であり、胸を張って往来を歩くことができない。決して好きで乳首を透けさせているわけではないのだ。

なぜ乳首が透けてしまうのか? 個人的には、クールビズの弊害だと考えている。クールビズの基本的な服装は白系色のシャツにズボンという格好だ。

白なので透けやすいのは当たり前であるし、さらに夏用のシャツは冬用と比べて薄くなっている。だから基本から透けやすい。

そして夏用のインナーも、涼しく着ることができる商品が各種メーカーから販売されているが、そういう素材はどうしても薄い生地になりがちだ。

結果としておじさん達のポッチは2層の薄衣を貫通してしまうのである。

 

消えない過去、隠せない乳首。

シャツを白系ではなく、透けにくい色にするのが乳首の透けを回避する良い解決方法だと思われる。

しかし、世の中のサラリーマンはやっぱり白いシャツを着る。これはビジネスの世界の慣習によるもので、私自身、新人の頃に水色のシャツを着ていたら

「新人なのに色付きのシャツなんて、度胸があるんだねぇ」

と直接言われたことがある。お堅い会社では白以外のシャツを着るのは危険なのだ。だからみんな白いシャツを着ている.

 

インナーを透けにくい色に変える方法もあるが、白いシャツの下に色付きのインナーを着ているのが目立つ。それが嫌だという人もいるだろう。

だが、背に腹は代えられない、肌着は乳首に代えられない、という人は黒などのインナーを着ても良いかもしれない。

ただし、インナーの色が目立つのをだらしないと思う人が結構いるみたいなので、気をつけたほうがいい。自分の経験だと、実際に会社で

「中に黒を着るな」

と注意された過去があり、それ以来インナーも白系色に縛って、色付きは避けているのだ。

 

そもそも男なんだから、乳首の透けなど気にするな。という意見もあるだろう。

気にならないならそれが一番いい。だが私は中学生の時に乳首の半径の大きさでからかわれた経験があるため、できれば世間に乳首は晒したくないのである。

 

技術革新でトップを守れるか?

ではどうするか? 実は世の中には透けにくい夏用のシャツというものはある。それを買えばいいのだ!

だが結構高い……シャツは消耗品であるから、もったいなくて普段の私はドンキで安物のシャツを買っている。

しかしドンキのシャツはガンガンに透ける。気をつけてほしい。

 

透けにくいインナーを買うという方法もある。実は最近の私はこれをやろうとしている。つまり涼しく着れて乳首も透けない、理想のインナーを探し求めてショッピングという旅をしているのである。

すこし前の大手メーカーのインナーは、快適さを追求するあまりティッシュペーパーみたいな薄さの生地が多かった。

だがしかし、最近は厚みを維持した夏用インナーが増えてきている印象である。素晴らしい企業努力だ。企業もきっと

「最近のサラリーマン、乳首透けすぎじゃね?」

って気付いたに違いない!

だが……悲しいかな、ある程度改善されたくらいでは私の乳首のメラニン色素を覆い隠すには及ばないのが現状なのだ。

しかしあと一歩という感じだ。惜しい……。

 

結局、白以外が透けない

結局のところ、乳首のスケスケを回避するには、透けない服を着るのが鉄則なのかもしれない。

実は私の会社は去年からオフィスカジュアルを解禁したため、ハジケた格好でなければ基本OKになった。そのため、インナーの透けない色のシャツやポロシャツを堂々と着て出社している。

しかし、ちょっと真面目な会議がある日など、今日はオフィスカジュアルじゃないほうがいいかなぁとなる時もある。

そういう時は、やはり、なるべく乳首が透けにくいビジネスシャツとインナーを選んで着ていく。どうでもいい時は乳首が透けない服を着て、真面目な時には乳首が透ける服を着るとはこれいかに? と思わなくもないが、会社というのはそういう慣習に縛られる場所だから仕方ないだろう。

 

というわけで、透けない白の快適インナーを探す私の旅は継続中なのである。

ユニクロのエアリズムか、無印のベージュの綿のインナーが今のところいい感じに透けにくい。

紳士服メーカーのインナーは透けやすい。ビジネス服を想定したインナーだから透けにくいのでは? と思っていたが、そんなことはなくて意外だった。

 

今回はこのような感じで、サラリーマン乳首スケスケ問題の当事者として書き記してみた。これにてお開きとさせていただきたい。

読んでくれた諸兄。ありがとう。皆の乳首が晒し首にならないことを祈っている。

生まれて初めて競馬に行ったレポ

2月15日(土)に小倉競馬へ行ってきました。

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小倉には何度か行ったことあるけれど、小倉競馬は初めて、もちろん競馬も初めて。

今回は競馬歴7年のフォロワーさんと一緒に行って教えてもらいました。全てを。


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まずは朝ごはんに博多駅のホームで立ち食いうどんを食べます。

こういうのは味というよりも空気で美味いと感じます。隣に駅員が来て食ってたのもなんか良かった。


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博多駅小倉駅には特急ソニックで1,470円(QRコードで乗車する九州ネットきっぷが1番安い気がしております)


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小倉駅→競馬場前へモノレールで行きます。絶対間違えなさそうな駅名が良いですね。

ただし切符がQRコードで読み込む方式で難しい。


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駅から直結で競馬場に入れます。福岡は地下鉄と空港が直結しててすごいと褒められがちなんですが、競馬場も直結してるので褒められるべきでしょう。

入場料100円を払い中に入ると、雰囲気的にはどこかのテーマパークや動物園っぽい建物を進みます。

「実際、サラブレッドのテーマパークや動物園ですよ」と言われ、そうか、なるほど。となる。


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競馬場。広い!!

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なるほど! ここでこうやって見るのか! という感動

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こういう席もありますが予約制です。

屋内席も上階にあって暖かくして見れる。こうやってブルジョワが庶民を上から見下ろすわけですな。

 

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「さて、やりますか」となりまして、まずはパドックを見に行きました。

馬を見る……が、何が良いのか悪いのか分からない。

「色々ポイントはありますが……」と教えてもらいつつ見ても分からない。「まぁそんなものですよ」とのこと。

 

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パドックのビジョンに色んな情報が出ていて、それの見方も教えてもらいました。

競馬には直感派・データ派とあると思いますが、直感的な判断材料(パドックや空気)とデータ的な判断材料が混在しまくってて、初めての僕は直感に頼ればいいのか、データを吟味すればいいのか、どうすればいいか混乱。

 

しかし僕は別のフォロワーさんからリプライで

「丹内を買え」

と言われていたので、丹内騎手の乗る馬を選びます。


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こういうマークシートが市役所の申請書みたいに置いてあって(ただし市役所の申請書の1000倍くらい紙の量が置いてある)、ちっちゃい鉛筆で書いていきます。

書き方も全て一緒に行ったフォロワーさんに教えてもらう。ありがたや……
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裏も書ける


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発券機にお金を入れてマークシートを入れる(順番大事)と、マークシートに不備がなければ馬券が出てくる(1回マークシートに不備があってクソテンパった)


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そうこうしているうちにレースが始まる!


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ドドドドドドドド


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丹内騎手の馬が2着だから複勝で当たった!

ただしこの当たりは170円くらいだったので、300円分買っていたからトータルでは赤字になってしまいました。


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他の競馬場のレース結果もすぐに張り出されます。

ネット社会なのにちゃんと印刷して張り出していくあたりがお役所仕事感があるなぁと思います。

 

よく見てみると、

  • 職員が一切私語しない
  • 関係者通路から出てくる(出て行く)職員が一礼する
  • ゴミ箱が定期的に交換されている
  • 給水機(お湯、お茶も出る)がいっぱいある
  • ゴミが一切落ちてない

などといったところが凄くお堅いお役所仕事感があってイメージとギャップがありました。

あとトイレめっちゃある。スタジアムか? ってなった。


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床にゴミは落ちてないんですが、記入台の上はこんな感じでマークシートがゴシャゴシャ! って散らかってました(この一ヶ所だけではない)。

たぶんこれは、いちいちマークシートを取りに行くのが面倒な人が、まとめて取って、記入台の上に置いてるんだと思います。でもそれなら放置せずに自分で持っとけよって思っちゃいますね。

あと、「書いたけどやっぱや〜めた」っていうマークシートをにぎり潰してそのままにしてるのもあるみたいです。捨てなよ。


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さて、メインのレースの馬券を馬券を買いました。

僕の数少ない競馬知識を挙げると、『プレーンソング』という小説に、意図的に着順がデザインされたレースを当てることを生き甲斐にしている競馬マニアが出てきます。

そういう陰謀論的なものが絡んでいる仕組まれた馬券(サイン馬券)を僕も買いたかったので、メインのレースに陰謀が絡んでいると想像した僕は4-1-3の馬券を買いました。

これは今年の万博の開催日、4/13に絡めたサイン馬券です。万博はチケットが全然売れてなくて、知事が集客に四苦八苦してるっぽいので、九州からの集客を狙って日本政府が着順をデザインしてくるに違いない! イケる!

と思ったのですが全然ダメでした。

 

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それ以外のレースでもパドックとレース場を往復しながら1レース300円くらいで遊んだのですが全然当たりません。

あの馬、良いかも……と思っていたら同じ馬をフォロワーさんが「あの馬良いですね……」と言ったので、意見が合ったからイケる! と思っても外れたり。

丹内を買ったら外れて「あ丹内なぁ〜」とか言ってみたりしました。


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お昼にカツ(勝つ)カレーを食べました。(大盛り無料でした)

食べている最中のレースは何も買わなかったんですが、なんと丹内が勝ってしまって、買わない時だけ勝つやん……ってなりました。


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やはり丹内を信じるしかない。

丹内を信じる気持ちが丹内から、あ丹内んだ……。

 

最終レースを丹内1着にかけた僕とフォロワーさんは見事に外れました。


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小倉の商店街で飲みました。

小倉で飲んだことなかったから店探しが難しかった。

〆のラーメンは駅ナカのShinShin。


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競馬、とても楽しかった。

知らない遊びと場所と文化に踏み込んだ気がする。話だけに聞いていたものを実際に見聞きすると感動する。

今回は最初から最後までレクチャーしてもらって感謝でした。

 

自分の中の騎手の知名度

  1. 武豊
  2. ルメール
  3. 丹内

になってしまい「それ、競馬好きの人に言ったら、渋い趣味だねって言われそう」とのこと。


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特急ソニックで小倉→博多に帰ります。


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プワァァァァァァァァ


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ガラガラで気持ちよかったので写真を撮る。

2001年宇宙の旅みたいな一点透視図法みたいな写真を撮りがち。

 

馬券の買い方が分かったし、次は1人でも来れそうです。

天神にも馬券を買えるところがあるみたいだから、今度行ってみようかな〜

 

以上。レポでした。

2024年に読んだ本マイベストテン

仕事納め直前に風邪を引いて奇跡の12連休を作り出してしまいました。

でも年末年始休みに仕事しないといけない……。

あぁ、仕事したくないなぁ……一旦年末っぽいブログを書くか……

 

というわけで去年に引き続いて今年も読んだ本のマイベストテンを発表していきたいと思います。

去年は長文になっちゃったので、今年は軽く紹介していこうかな。

 

なお、去年と同じく、さっさと1位を教えろよという人のために1位から紹介していきます。

 

 

1位 カフカ断片集

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新潮文庫から今年出た、カフカ断片集を1位に設定。

 

ベストテンをどういう基準で選ぼうかなぁとなった時に、面白さとか、満足感とか、新しい発見のような、自分主体的な(?)評価の他にも、人にオススメしたいかという点も踏まえることにしました。

人にオススメする時に大事なことが読みやすさや、手に入りやすさや、サイズの小ささも大事だと思うんですが、このカフカ断片集は人にオススメしやすい要素が強いんですよね。

 

カフカって短編であってもストーリーの着地点が見えないので読みにくい、ガツガツ読めるような作家じゃないんですが、これは断片集なので一つ一つがめっちゃ短い(たまにちょっとだけ長いのもある)ため、ちょっと読んで辛くなったらすぐに休憩できるんですよ。

それに本自体の分量も多くないし、1日あれば読み終えることができると思います。

 

今年出たから本屋さんにも置いてあるし、新潮文庫だから安い。

文庫本だから邪魔にならないし薄い。

「断片集」という名前が付いていますが、詩集みたいなものなので、最初のページから順番に読む必要も無いし、全部読む必要も無い。

気が向いた時にパラパラめくって、その時目についた文章を楽しむだけでもカフカは楽しいです。

そもそもカフカ自身が断片を読んで欲しくなかったらしいので、積読しても罪悪感が無いですね。

 

個人的には、カフカの断片を読める方法というのが限られているというのを聞いていたので、新潮文庫から出た時に、買うしかない! となりまして買って満足してしまいました(笑)

というのも少し前に同じく新潮文庫から「カフカ短編集」が出ていて、そっちを読み終えてから読もうと思っていたんですが、結局短編集の方を読まずコッチを読んで「めっちゃいい!」って今言っているという。

 

2位 各務原・名古屋・国立

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2024年、小島信夫にハマり出しました。

そのきっかけになった1冊です。

 

これヤバいです。正直全然オススメしません。

これ2,300円(税別)するんですよ、高くない? 海外文庫かよ。

 

内容は、作者が各務原と名古屋と国立で行った講演の原稿の合間に、家族の話を入れたり、有名な作家の評伝を入ってくるという、小説と読んで良いのか分からない内容です。

小説として面白いかどうかで読むと全く面白くないのですが、どうもこの小島信夫という作家は文章がめちゃくちゃ上手いみたいで、たま〜に物凄く情緒にブッ刺さる文章が出てくるんです。

夕暮れ時に近所を散歩してたらカレーの匂いがちょっとして幸せ。みたいな文章を書いてくるんです。

そこの文章の部分だけ切り出しても、ただのカレーの匂いなので、良い文章には違いないんですけど最初の感動は消えているというか、文章の連続の中で出会う必要があるというか、そういう下準備が必要な感動なんです。

 

だから、内容はつまらないけど一瞬の感動のためにちゃんと読んでしまい、内容は無いので忘れる。という厄介な作品です。

もしも読むのであれば解説から読んで欲しいです。この本の中で一番面白い(分かりやすい)のは解説です。

 

僕は小島信夫にハマってしまったので、本屋で探しているのですが、小島信夫作品が結構本屋に無くって、「アメリカン・ハイスクール」とか「私の作家評伝」くらいしか置いてないんですよね……だから古本屋に行って小島信夫を見つけると条件反射的に買うようにしているのですが、そんな調子で買った単行本が4冊積読になっています……助けて……

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積読している小島信夫

 

3位 百年の孤独

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今年の出版業界の事件と言われている「百年の孤独」の文庫版を僕も書いまして、読みました。

普通に面白かった。

同じ名前の登場人物がいっぱい出てきて訳がわからなくなるというのを聞いていたので、読み切ること自体が不安だったのですが、本当に同じ名前の人がいっぱい出てきた時に、全部把握するのは諦めて、とりあえずノリで読んでいったら意外とスルスル読めた、という感じでした。

 

小島信夫と似たことを書くんですが、ガルシア・マルケスも多分めっちゃ文章が上手いんだろうなというのをすごく感じて、よく聞くマジックリアリズムの手法も、なめらかにスルッと上手に書かれているから引っかからないのかなと……いや、ハァッ⁉︎ ってなることはなるんですが……明らかにおかしい描写以外は、そういうものなのか? くらいで誤魔化されそうになるんですよね。

 

それに文章が詩的で読んでで面白いです。ボリュームが多いけど読める日はどんどん読める感じ。

逆に読めない日は全然読めないので、今日じゃないな〜と思ったら焦らず辞めてました。そんな感じなので内容を忘れちゃうんですが、全部把握しようと思っていなかったのであまり気にせず読めました。

百年の孤独」を読むために人物相関図を作りました! みたいなツイートもありましたが、それはそれで大変すぎるので、僕はとりあえず1回読み切る目的ならば毎回忘れるくらいの気持ちで読んでもいいんじゃないかなって思います。

 

4位 苦海浄土 わが水俣病

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水俣病なので、テーマが重いんですが、石牟礼道子の言葉がうますぎて引いてしまうくらいの綺麗な言葉がたくさんあるんですね。

綺麗な言葉で綴られる悲惨な水俣病の描写で悲壮感が凄まじいことになっちゃっています。

単純なルポルタージュじゃなくて幻想文学でもあることに注意が必要なんですけど、その描写はホント綺麗です。しかもシリアスな中にちょっとだけコミカルな描写も入れてたりして陰影があり、単純に文学としてすごい良い作品だなぁと思いました。

 

あと水俣病のことも色々勉強になるんですが、水俣病がシンプルにめっちゃ怖いんですよ、そんなスピードで死ぬの!? っていうくらい発症から死亡まで想像よりも短くて(0.5〜1.5ヶ月)、バリバリ漁師として肉体労働をしていた人がその短期間でベッドから起き上がれなくなって死ぬっていうのが、コロナを経験している上だと想像できて怖い。

水俣病感染症じゃないけど、当時はそんなことも分からなかったわけで、住んでいる人たちの恐怖感はすごかっただろうと思うんですが、苦海浄土の中の住民たちはそれでも精一杯、割と明るく生きてるんですよね。

 

全体としては怨嗟の物語なんですけど、さっきも書いたように微妙にコミカルなところがあったり、自然の美しさとか命の尊厳を描いたりとか、とにかくなんかすごいことになっちゃってるやん〜って感じです(語彙力死んだ)。

 

5位 竜の卵

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すごく昔のSFで、これを手に入れるために東京の神保町まで行きました(ウソ。他の用事もあった)。

ファーストコンタクトもののSFで、ここまでやっちゃったらもう生半可な描写の地球外惑星書けねぇじゃんってレベルの詳細な舞台設定を重力670億倍の中性子星で行うから、これを読んだ後にファーストコンタクトものが物足りなくなってしまうという副作用に見舞われました。

 

人間側ではなく宇宙人(チーラ)の側に立って書かれているのも珍しいと思います。

ただ、歴史物として書かれているので、ページ数のほとんどが人類の歴史をチーラが高速でなぞっていく(中性子星では地球の100万倍のスピード感で時間が流れる)話に割かれていて、人類とチーラのコンタクトは本当に最後の方の数章(2割程度かな?)に限られており、異星人とのガッツリとしたファーストコンタクトものを求める人には少々期待はずれかもしれません。

 

ただ、最後のコンタクトの瞬間がマジでエグくて、このために俺は読んでいたんだ! という絶頂感がすごかった。

 

6位 一億年のテレスコープ

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少し前にブログでも紹介した「一億年のテレスコープ」を6位にしました。

詳細はもう、前のブログを読んでくれって感じなんですが、「竜の卵」がガッチガチの舞台設定であることに比べると、こちらは丁度いい塩梅で、かつSF的考証も弱くなく、とってもいい感じだということだけ書いておきます。

同じ作者の「法治の獣」もいいぞ……。

 

7位 ウは宇宙船のウ

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SFが続きますね。

初めてレイ・ブラッドベリを読んだんですが、こんな感じなんか……! という独特の文体に最初は戸惑ったものの、短編でどんどん読んでいくとだんだん慣れてハマっていく感覚でした。

アメリカンなノリのホッコリしたホームドラマみたいな話がいくつかあってそれが面白かったです。

 

この作品はそもそも収録されている「霧笛」を読みたいがために読み始めました。

「霧笛」はエドガー・アラン・ポーの「灯台」のオマージュらしくて、「霧笛」の古代から生き延びた恐竜という発想が後年の様々なフィクションのアイデアの源泉になったとかなんとか……そしてその中にゴジラも含まれるとかなんとか……。

なので「霧笛」は一度は読んでおかないといけないな〜と思っていた作品でした。

 

「竜の卵」や「一億年のテレスコープ」のようにガチガチのSF考証をしている作風ではないので、今時の流行りではないかと思いますが、“SFの叙情詩人”と呼ばれるだけあって文中からふんだんに溢れる情緒を楽しめました。

どうも今年はプロットや考証に富んだよりも情緒的な作品が好きだったみたいです。

 

8位 テスカトリポカ

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直木賞作品をあんまり読まないのと、めっちゃ分厚いのとで、読み切れるか不安だったんですが、1週間くらいず〜っとハマって読んでました。

リアルとファンタジーの中間の危ういところをフラフラしている感じで、「百年の孤独」のようなマジックリアリズム的な要素もあるんじゃないかと個人的に思いました(逆にフィクションじゃなかったら神奈川県川崎市とメキシコが怖すぎる)。

 

今年読んだ本たちの中では異色なほど読みやすく、こういうスラスラとページ数を消費できる本は読んでて自尊心が気持ち良くなっていいですね。

古代アステカの知識とかもいっぱい出ていて、興味の広がりが生まれたのも良かったです。

 

9位 アンリ・ルソー 楽園の謎

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アンリ・ルソーの本を集めようと思っています。

ただ、本屋で手に入る本は画集とかが関の山だったので、ブックオフのアプリを使ってこの評伝書を取り寄せました。

 

アンリ・ルソーの絵の評伝ってだいたいヘタウマ系とか、異色の画家(笑)っていう内容なんですが、この本は珍しくルソーを最初から最後まで褒めちぎっていて、そんなに褒めちぎったら逆に営業妨害じゃないか? ってくらい褒めちぎってます。

でも、言われてみると確かにそうかもな〜と思わせるところが上手で、特に、音楽的な絵画であることを説明しているところがとても腑に落ちました。

あ〜わかるかも、となった。

 

1冊まるまるアンリ・ルソーなので、幼少期の話とか、影響を受けている画家とか、他の本では読んだことのなかった情報とかも結構多くあって、このレベルのアンリ・ルソー評をまた手に入れたいです。

 

10位 『百年の孤独』を代わりに読む

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百年の孤独」を読んだので、本屋さんで隣に置かれてたこちらも読んでみました。

脱線しながら、途中で止まりながら、読んでいくということが自分の読み方と結構近くて共感できたのと、「一気に読む」ことが本の面白さのバロメーターとされがちな世の中で、すごく時間をかけて読むことの楽しさを表現されていてとても良かった。

 

百年の孤独」を100%理解しながら読んだわけではなかったので、「『百年の孤独』を代わりに読む」を読みながら、あ〜そういえばそんな話あったな〜となりました(結構直前に読んでたのに数年前に読んだみたいなテンションになった)。

 

本の帯が保坂和志と三宅香帆で「保坂和志と三宅香帆って名前が並ぶことあるんだ!?」って勝手なイメージだけでビックリしました。

 

 

はい、という感じの2024年でした。

書いてる途中も頭痛が酷くなって、途中で寝ちゃったので、めっちゃ時間かかったしキツかった……

来年は健康に過ごしたいですね。

 

それではみなさん良いお年を!!

 

 

情熱的なクソつまんないものが生まれる瞬間

本屋で本を買ってそのままカフェに入って読んでいると、男女の2人組が私の隣の2人用テーブルを3つもくっつけ出した。

6人席を作って自分たちの荷物を置き、2人分の席は空けたままにしていたので、これは何が起きるのかと視界の隅で気にしていると、やがて2人の男が合流してきた。

なるほど、と思ったけれど、それなら4人席で良くないかい? という気持ちもちょっと発生した。なんにせよ、この時すでに気になってしまっていて、無粋ながら聞き耳が立ってしまった。

 

男3人女1人のグループの関係性や年の頃は分からなかったけれど、なんとなく若い感じがした、おそらく30代くらいか。私と同世代くらいの感じがした。

話している内容は細かく分からないのだが、どうやら結婚式の打ち合わせをしているらしい。

男3女1で自分の結婚式の会議をするはずがない(と思う)ので、多分共通の知り合いの結婚式に関する話し合いなのだろう、と推察していると、おもむろに「この歌詞はすごい」「天才」などと盛り上がり始めた。

最初から居た男1が「頑張って考えました!」と調子良くなりだして、その場でリズムを少しつけて音読し始めたのはPERFECT HUMANの替え歌だったので私は衝撃を受けた。

こいつは知り合いの結婚式でPERFECT HUMANの替え歌を披露するつもりなのか!?

 

______

 

およそ7年前にさかのぼる。

当時の私は大学を卒業間近だった。

大学の卒業式の後には同学科の卒業生と教授たちが集まって謝恩会という会食パーティーをホテルでやるのが恒例になっていた。

去年の謝恩会では、大学院の先輩が参加者を複数人まとめ上げて劇を披露し、大いに盛り上がったらしく、私は同期の何人かから、今年はどうする? 何かやるならやろう! と振られていた。

 

その当時の私は、劇なんて準備の必要なものは無理だけど、軽く歌って踊るくらいならできるかもしれないと考えていた。

そして丁度よくナカタという人間が身近にいたので、そうだ、去年流行ったPERFECT HUMANをナカタにやってもらうというのはどうだろうか! 丸々コピーしても面白くないだろうから、

WE LIVE IN TOKYO のところだけ

WE LIVE IN KUMAMOTO に無理やり変えてしまおう!(私の大学は熊本)

試しに「ウィ〜 リブインクマモト」とちょっと口づさんでみると、その無理に詰め込んだ感が面白いような気がした。

 

私はこの名案をゼミの後輩に話してみた。ご丁寧に「WE LIVE IN KUMAMOTO」のくだりまで口づさんで説明した。すると後輩は

「ちょっと古いし、みっともなくないですか?」

と私のPERFECT HUMANを一蹴し、私はこの案を封印したのだった。

結局、謝恩会では誰も何もやらなかった。

 

_____

 

それが7年前の話である。

令和のPREFECT HUMANはちょっと古いどころの話ではない。年号が変わってしまっている。

 

男の音読は数フレーズ続いた。その内容を一字一句は聞き取れないが、原曲の歌詞とはかなり違うものになっているらしかった。

皆さんは、結婚式の友人による出し物というものを見たことがあるだろうか? あれほどつまらないものはないだろう。

幼稚園のお遊戯会レベルのクオリティなのに参加者の年齢は高い。お遊戯会から微笑ましさを抜いた何かだ。

これが無料だからギリギリ見れる。もしも参加者が新郎新婦からお代を貰っていたら告発してしまうかもしれない。

新郎新婦がなんだか楽しそうに見ているのが唯一の救いだ。

そうだ、それだ。

友人の出し物は式の参列者のためのものではない。新郎新婦のためにあるのだから、2人が楽しそうにしていれば良いのだ。友人の出し物というのはそういうものだ。ターゲットが私ではないのだから、クソつまんなくて当たり前だ。

とはいえだ、この男はそこに自分で考えたPERFECT HUMANの替え歌をぶつけようとしている。

やめろ。やめるんだ。

 

「これ、ほとんど考えたん? スゲー!」

「ちゃんと韻を踏んでる」

「絶対喜ぶと思う!」

取り巻きの人たちがそんなことを言って持ち上げるから、本人はどんどん自信を深めていく。

彼の友達は、私の後輩のようなタイプではないらしい。

 

「じゃあこの歌詞をベースにするってことで、いいスか!?」

「いいよ! この方向で行こう!」

行くな! 進むな!

そう思っても私は部外者でしかない。

ここで急に立ち上がって彼らを止めようとすれば変人だ。それかフラッシュモブの人だ。

 

その後、4人でPERFECT HUMANの替え歌をパートごとに読み合わせ始めた。

4人で歌うの!?

私は飲み終わったらすぐに出ようと思っていたLサイズのカフェラテを飲み終えたので店を出た。

 

歩きながら、彼らの成功を心から祈ったが、失敗して欲しいなぁと思ったことは思った。

とはいえ、彼らは情熱的だった。何かを生み出そうとしていた。

実際あれは彼らの作品が生み出される瞬間だったんじゃないかと思う。

 

ただ、あれだけの情熱が生まれたものがクソつまんないものになってしまうという難しさ、産みの苦しみ(?)があるなと考えさせられた。

クソつまんなくても、新郎新婦が笑ってくれればいいなと思う。

全員落ちろ

小学生だったか幼稚園だったか分からないのだが、それくらいの頃に親が僕をよく投票に連れて行った。

実家の投票所は中学校の体育館だった。中学校は家から大変近く、歩いてすぐだった。

僕は「あんたの中学校は歩いてすぐだけん、通うの楽よ、良かねぇ」と母親や祖母に言われていたから、いつかここに通うのかという気持ちで、それは多分、緊張と気恥ずかしさの合わさった気持ちで、中学校の中に入って行った。

 

体育館には外に面した玄関から靴を脱いで入り、大きなスリッパを履いて、母親の後ろをパタパタとついて行った。

体育館はしんとしていた。

投票所の案内をする声があるから静寂ではないのだが、その声も、体育館の大きな空間の中で残響して、冷たい余韻を残して消えるから、「しん」とした空気になっていたんだと思う。

投票に来ている他の人はいつもほとんどいなかった。だから体育館はいつも必要以上に大きかった。

 

当時の僕は、中学校の体育館の雰囲気をそういう風に、おごそかなものと感じていたのだが、いざ中学生になった僕は自分の学校の体育館をそういう風に感じることはなかった。

中に入る時にスリッパを履くこともなかった。スリッパを履いたのは選挙の時だけだった。

そんな未来のことを知るわけがない当時の僕は、中学校の体育館をおごそかな場所、騒いではいけない場所、と認識していたわけだ。

 

「当時の僕」はこういう分別がついていたということなので、幼稚園児ではなくて、小学生だったのかもしれない。

小学校と中学校の体育館を比較して「騒いではいけない」と思っていた可能性が高そうだ……いや、幼稚園にも体育館はあったかな?

そもそも母親はなぜ僕を投票に連れて行ったのだろうか? 家で一人にしてはおけない年齢だったからだとしたら、小学生ではなくて幼稚園児だった可能性の方が高い。

 

結局のところはっきりしない。「当時の僕」は何歳だったのか? 当時の記憶は濃淡があり過ぎる。

細かいところまでどうでもいいことを覚えているが、大事なことはすっぽり抜けていたりする。

この時の投票に連れて行かれた記憶も、体育館に入った時のことは覚えている。イメージが脳内で再生できる。

だが、そのあとはまるで憶えていないことが続くようだ。

 

きっと母親は選挙のハガキを係員に渡し、小選挙区の候補者の名前を書き、比例代表の党名を書いていたはずだ。そして僕もそれを見ていたはずなのだが全く憶えていない。

当然、その選挙が何の選挙だったのかも憶えていない。

 

僕の記憶しているシーンは次からだ。

その時、最高裁裁判官の国民審査も行われていた。最高裁判所の裁判官(らしい人達)の名前の上に×印をつけるやつだ。

僕はその紙を見ていた。母親が記入するところを見ていた。今思えば、他人の投票用紙を見る貴重な機会だった。

 

その時、母親は小さな声で

「全員落ちろ〜」

と言いながら全ての名前の上に「×」を書いた。

 

僕は衝撃を受けた。

当時の僕は選挙のことなどまるで分かっていないから、母親が国会議員を全員落としたのだと思った。

選挙とは、誰か一人を選ぶのではなくて、気にいらなかったら全員を「×」にすることもできるのだ。大人にはその力があるのだ……と、盛大な勘違いをした。

 

もちろん、裁判官の国民審査と衆議院の選挙は違う。

しかし僕は、母親が選挙の方の投票用紙に名前を書いていたことについては記憶からスッポリと忘れ、国民審査の投票用紙の「×」だけが記憶に残った。

そしてしばらく盛大な勘違いを本気にしてしまった。

そればかりではなく、もしかしたら母親は何か悪いことをしていたのではないか……? とまで思っていた。

 

とはいえ、大人になる前に勘違いに気付いたので、変な恥をかくことはなかった。

そして僕は結構投票率の良い有権者になっていた。多分、あの当時に投票へ連れて行かれたことで、投票に行くことの心理的なハードルが低い人間になったのかもしれない。

まぁそれよりも、若者の投票率が低いことを僕に当てつけてくる親族がいたことの方が投票に行く理由としては直接的だったが……心理的なハードルが低いのは、子供の頃の経験だったと思う。

 

さて、今回の選挙でも最高裁裁判官の国民審査があった。

緑色の紙に最高裁判所の裁判官(らしい人達)の名前が載っていて、不適格と思う人がいれば「×」を付けろと書いてある。

僕はそこで、あの当時の中学校の体育館を思い出したのだった。

そして──

海外SFっぽい国内SFを読みたいなら「一億年のテレスコープ」を読んでくれ頼む

原点回帰して本の感想でも書くか〜ということで、今回は春暮康一の「一億年のテレスコープ」を読んだ感想を書いていきます。

 

なんか違うな〜と思っているなら、春暮康一作品を読んでみてほしい

いきなりですが皆さん、「三体」は読みましたか? 「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は読みましたか?

もし読んでなかったらすごく読んでほしいです。特に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」はそこまで長くないのでオススメです。まだ文庫化されていないので電子で読むのがお手軽ですよ。たまにセールで安くなってるしね。読め!

 

語気が強くなってごめんなさい。でもとにかく近年はこの2作がSFでは強い。SFをオススメするとなったらこの2作を出さなきゃという義務感があります。

そしてこの2作(あるいはどっちか片方)が好きだな〜と思った人は、ファーストコンタクトSFが好きな人と言えます。同時に、ハードSFも好きかもしれません。

「SFおもしれ〜! よ〜し、もっとSF読むぞ〜」

ってなったあと、何を読むか? 日本人なら星新一でしょう!

星新一おもしれ〜!」ってあなたはなります。もしかしたら、星新一が面白いことくらい最初から知っとるわ、っていう人かもしれません。

 

いずれにせよ「星新一も面白いけど、なんか違うんだよな」ってなるんじゃないかと思います。

それはそうで、星新一のSFは近年のハードSFとはジャンルが異なるのです。西洋画と日本画の違いみたいなことで、どっちが良いとかではなくて「三体」や「プロジェクト・ヘイル・メアリー」と同じタイプの知的満足感を満たせるものではないはずなんです。

 

じゃあどうしようか?

古典に行く。海外作家に行く。SFじゃなくてノンフィクションの科学技術を追う。色々道があると思いますが、いやいや、俺は日本人作家の、できれば最近のやつが読みたいんだよね……という人。

春暮康一の「一億年のテレスコープ」を読め。

 

ここらへん書いてたら途中でネタバレになってるって気付いて大量に書き直しました

「一億年のテレスコープ」は日本の新規精鋭の作家、春暮康一氏の初長編作で、同氏は「法治の獣」という短編集(こっちもめっちゃ面白い)でベストSF2022年国内篇第1位になっています。

ベストSFで1位になっている作品はだいたい面白いし、その作家はだいたい面白いから大丈夫です。まぁ正直、ファミ通の攻略本くらいの大丈夫さかな。

でも春暮康一は本当に大丈夫!

 

「一億年のテレスコープ」はファーストコンタクトSFで、ハードSFで、宇宙探索SFです。だからジャンル的には「三体」や「プロジェクト・ヘイル・メアリー」と同じで、好きな人には是非オススメしたい。

 

SFのいいところはサイエンスの部分で現実とリンクできることだと思います。ハードSFの特徴は、そのサイエンスの部分をゴリゴリの専門知識で補強しているところではないでしょうか。「一億年のテレスコープ」もゴリゴリの宇宙観測と宇宙工学の専門知識で補強された想像力に、納得感のあるストーリーを載せて作られた、海外SFに引けを取らないハードSFなのです。

 

ネタバレになるのでストーリーの話を全然できなくて辛いのですが、

脳を量子情報化したのび太ハルヒ出来杉くんが宇宙の冒険に出る話ってだけ言わせてください。

 

オタクこういうの好きだろ? 感

海外SFと国内SFの微妙な違いの一つとして、海外SFには独特な言い回しがあるなと僕は思っています。

具体例が出ないのですが、翻訳する過程でぎこちないような言葉になっているのか、なんなのか、変な文章じゃないけれど「海外の文章だな」っていう匂いがするんですよね。

春暮康一氏の文章は、たまに海外の文章の匂いがする時があって、「この言い回し、海外SFっぽいな〜!」って嬉しくなっちゃう時があります。

翻訳じゃないのに海外SFの匂いがする(と僕が思う)理由は分からないんですが、春暮康一氏が海外SFの文章のエッセンスを取り込んでいるんじゃないかなぁと考えたりしています。この理由は本当にまだ分からないし、そういう風に思うのは自分だけかもしれない……。

 

あと、海外SFは皮肉なセリフ回しが多いと思うんですが、「一億年のテレスコープ」にも結構多い。こういうところからも、春暮康一氏が海外のエッセンスを取り入れてるのかなぁと妄想したりしています。

 

あと「一億年のテレスコープ」は遠未来、現在、遠過去の3つの時系列で話が進んでいき、各章のタイトルの下に時系列を示す数字がバラバラに載っていて「これオタクの好きなやつやん」ってなります。

 

現代SFの梯子を繋げ

ネットで感想を見ると「〇〇が好きな人にオススメ」とか「〇〇を思い起こす」みたいな投稿がちょこちょこあります。

僕も、「三体とプロジェクト・ヘイル・メアリーが好きな人にオススメ」という感じで本作を紹介していますし、正直にいうと似ている作品はある。僕は「スターメイカー」を思い出しました。

〇〇に似ていると聞くと、新規性が無いように感じますが、現代SFというのは円熟期にあるんじゃないかと個人的には考えています。

 

昔は突飛な発想だった電脳化や電子世界が、VRやAIの発展で想像しやすいものになり、多少使い古された感が出てきていると思います。

宇宙への旅はハードSFの代表格ですが、数が多いゆえに似たような展開になりがちなのも事実。新規性を出すには何かひと捻りほしい……っていう状況だと思います。

 

「一億年のテレスコープ」は現代のSFの潮流にひと捻り加えた正統派ハードSFという感じで、革命的ではありません。

しかしながら、日本の新人作家にこのレベルのハードSFを書いてくれる作家がいるということが僕はすごいと思うのです。

 

新しいことのために先人の積み重ねた業績を利用することを「巨人の肩に乗る」と言ったりしますが、ここはあえて作中の表現をパクって、「次の梯子を繋ぐ」と言いたいです。

「一億年のテレスコープ」は現代SFの次の梯子を繋ぐ作品だと思うのです。

 

梯子を繋いだ先に何が待っているのか……新しい技術のブレイクスルーに引っ張られて全く別のSFが生まれてくるんでしょうか? それともSF自体が廃れていくんでしょうか?

もしも全く新しいSFが生まれたとしても、いずれ新規性の天井が来て、やっぱり廃れていく未来も想像できます。

しかし「一億年のテレスコープ」を読んだあとの僕は、「そうはならないかもなぁ」と思えるのです。

 

以上です。本の感想っていうか、紹介みたいになっちゃった。

 

 

 

セイタカアワダチソウに感情移入

何が建っていたのかは忘れたのだけれど、とにかく何かが取り壊された後が小さな空き地になっていて、その場所が僕の通勤途中にある。

その空き地がある道路(通り)は多分もともと長屋通りになっていたんじゃないかと考えている。通りに面して、縦長な細長い土地がたくさんくっ付いているからだ。その空き地も同じように通りに対して縦長な土地になっている。

 

その空き地は地面が小学校のグラウンドのような感じの砂利になっていた。

こういう場所にはセイタカアワダチソウが生えるイメージだなぁ、と思っていたら案の定、生えた。

まず、小さな子供のセイタカアワダチソウが空き地全体に生えた。砂利とアスファルトの間の隙間からは集中的に生えていた(種子が定着しやすいとかが関係するのだろうか)。その生え方はまさに泡立つように生えたものだった。

 

なにせ僕は出勤時にいつもその空き地の前を通るわけだから、セイタカアワダチソウの生長スピードを実感できる。こういうのを定点観測と言えるのか分からないが、とにかく出勤時は毎回チェックしていた。

最初の数日は可愛いものだったセイタカアワダチソウ達だったが、やがて空き地の空間を蹂躙し始めた。横の面積的にも、縦の空間的にも蹂躙し始めた。

その生長スピードは驚異的である。あいつらはとにかくデカくなればいいと思っているらしく、見栄えのいい花や枝なんかをつけることもなく、ただ単純に背を高くしていた。

泡立つように生え、背が高い草になっていった。まさにセイタカアワダチソウという名前にふさわしかった。

 

やがて生長しきったのか、ある程度のところで背は高くならなくなった。“ある程度”といっても一番大きいもので180 cmはある。それが空き地にみっちり生えているので威圧感はすごい。もう森だった。一本一本が小さい木のようである。

この空き地はどう見ても栄養豊富という感じではないので、セイタカアワダチソウは、ほとんどの栄養を光合成で作っているのだろう。

いったいどれほどの二酸化炭素を固定すれば、この、ちょっとした木のような太い茎の草の群れができるのだろうか……

 

二酸化炭素が植物に固定されて減ったということは喜ばしいことのはずなのに、セイタカアワダチソウの群生を見てもあまり喜ばしい気持ちにならないのは不思議だ。

多分見た目のせいだと思う。

セイタカアワダチソウはなんだか小学生が何も見ないで描いた草みたいな単純すぎるフォルムをしている。

よこ枝というものが無く、一本だけの太い茎がある。その太い茎から簡単な形の葉が出ているだけだ。

葉が茎から出ている間隔は上に行くほど狭くなっていて、まだまだ無遠慮に伸びるつもりに見えて節操がない。

茎も、成長点に近い頭の部分は青々としていてまだ可愛げがあるが、根元に近づくと赤黒くなっていてなんだか気味が悪い。

 

それにイメージも悪い。

セイタカアワダチソウ外来種(北アメリカ原産らしい)で、もう何度も書いているが、その生長スピードと空間支配率が外来種の侵略のイメージにぴったりだ。

人間は勝手なもので、そういう見た目とイメージで、セイタカアワダチソウがあまり好きではない。好きな人というのをみたことが無い。いたら絶対少数派だ。

 

あと、忘れていたが、花もなんだか体に悪そうな見た目と色をしていると思う。

花のことを書き忘れていたのは「そろそろあの気持ち悪い花をつけるぞ」と思っていた頃に、空き地のセイタカアワダチソウが刈り尽くされてしまったからだ。

 

ある日いつものように、その空き地の前を通ると、あんなに暴力的に生い茂っていたセイタカアワダチソウが全て刈られていた。

刈られたまま、地面に死体のように打ち捨てられていた。

茎は太くて固いため地面に転がっていてもまだ生きている感じがあるが、葉は水分が抜けて地面にぺったりと張り付いていて死んでいた。葉はメキメキと広がっていた頃の名残りは消えて、まだ生きている茎にしがみついているだけの飾りとなっていた。その様子はこれから段階的に死んでいく動物を思わせた。茎と葉の感じが背骨に似ていなくもないからそんな風に思ったんだろう。とにかく悲しい。

 

悲しい? なぜ感情移入を?

そんな情が移る生き物じゃないだろ。外来種の雑草ぞ?

 

自分でもよく分からず「悲しい」「残念だ」という気持ちになり、自分で自分がよくわからなくなってしまった。

確か自分はどちらかというとアンチセイタカアワダチソウとして観察してなかったっけ?

この感情が意味不明なので、解読をしなければならない。しなければならないように感じた。

 

そういえば、結構前の芥川賞に「背高泡立草」という作品があったはずだ。あの話は今の自分と状況が重なったりしているだろうか? もしかしたら、背高泡立草を読めば、いくぶんか感情の解読に繋がるだろうか?

そう思い、文庫の「背高泡立草」を読んだのであった。

 

「背高泡立草」は、すごく簡単に言うと、家にまつわる歴史の話だった。セイタカアワダチソウはあまり出てくることも無ければ、主人公が雑草に感情移入するようなこともなかった。

芥川賞に選ばれるような純文学にありがちなのが、主題を掴むことができず、読み解く力が足りず、感想に困ることである。

だからなんとなく感じたことを書くのだが、「背高泡立草」で感じたのは、単に目の前にある物(家とか、古いガラクタのような置き物とか)にも歴史や、その物が見てきた出来事というべきか、そういう時間的な視点でしか観測できないものがあって、それは時間的なものだから、現在の姿(雑草まみれの家とか)からは想像できないけれど、確かにある。

 

だから、現在の目から見ただけでは、その家やガラクタ達の価値はわからない。分からないけれど、主人公の家族が行う草ぬきのような習慣的な行事によってなんとなく維持されているから、かろうじてその価値は守られている。そういうものってあるよね……みたいな。

そういう、時間的な視点で想像したときの価値についての話なのかなと思った。

うん。

 

……さて、「背高泡立草」を読むきっかけになったセイタカアワダチソウの話なのだけれど、自分の感情の答えみたいなものは、当たり前のように「背高泡立草」には書かれていなかった。そんな奇跡は流石に起きず。

だから自分で考えたのだけれど、たぶん、「悲しい」というよりは「残念」という気持ちだったんじゃないかなと思う。

 

僕はゴジラ映画が好きなのだけれど、好きな要素の一つに、ゴジラによって人間の作り出した文明や日常が破壊されることが気持ちいいということがある。

こう書くとやばい人だが、あくまでフィクションの中の出来事として消費できないと嫌である。サイコパスじゃない。

 

そんな風に日常が破壊される瞬間にときめく僕は、空き地を蹂躙していくセイタカアワダチソウに一種の興奮を覚えていたらしい。

侵略種として空き地の生物多様性を破壊していくセイタカアワダチソウは仮想ゴジラであった。僕はそれを外野から安全に、現実だけどフィクションとして眺めるのが楽しかったのだ。

 

だから、いきなり何の前触れもなく絶滅してしまったセイタカアワダチソウに幻滅してしまったのだ。あっという間にゴジラが死んではつまらないのと一緒だ。

もしくは、あんなに茂っていた草を人間の都合で一気に刈り取ってしまう工事関係者の風情の無さに呆れて残念に思ったのだ。

風情の無さといっても、元の風景は別に風情があるものでは無かったし、工事関係者にとってセイタカアワダチソウは雑草以外の何者でもない。だから、僕から影で無粋者扱いされて怒っていいのはどちらかといえば工事関係者の方だ。でも僕は風情が無くて残念に思った、これは主観の話でしかない。最初からそうだけど。

 

僕がセイタカアワダチソウが刈られた時に思った「悲しい」はそういうことみたいだった。

その空き地は今、どんどん工事の手が入っている。看板を見ると、どうやら誰かの家が建つらしい。

看板を見て思い出したのだが、もともと建っていたのも家だった。木造住宅だった。ただし、誰も住んでいる気配が無く、廃墟のようになっていたのだった。

 

その木造住宅の土地の持ち主が建て替えているのだろうか?

住居なら、小さな庭くらいができるであろう。住民はそこに何を植えるのだろうか? セイタカアワダチソウは生えないし、生えてもすぐに抜かれるだろう。