魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

久しぶりのブログなので仕事のこと書き殴り

ブログを3ヶ月ほど放置。今までこんなに放置したことあったっけか?

 

何が起こったか。簡単に言うと忙しすぎてブログにかまけなかった。

平日はだいたい22時まで残業しているし、休日も仕事を持ち帰ってやっていたりしていた。多分、就職してから今が一番自分を犠牲にしている。

それに休みの日は休みの日で、有難いことに人と会っていたり、東京に行っていたりしていた。

公私共に忙しかったと言うべきだろうか? こう書くと公私で充実しているみたいだが、“公”の部分は充実しているとは言い難い。

 

毎日サービス残業になってしまっているし、休日の仕事は無申請でやってしまっているので、ちょっとよろしくない。

よろしくないことは分かっているのだけれど、重圧が強くて強迫観念にかられてしまっている。

 

昨年、大きめのプロジェクトに参画していたのだが、色々な事情で失敗になってしまった。

具合の悪いことに弊社がかなりの負債を被ることになってしまい(これは契約をキッチリ結んでいなかったうちの経営陣が悪い)、なかなか大きめの赤色の数字になったということを、僕はこっぴどく聞かされていた。

もちろん失敗の原因は僕だけというわけではない。というか、ほぼ全く僕のせいではないと思っているのだが、それでも会社にとってネガティブな結果を聞かされて、その原因となった渦中に自分がいたとすると、尻拭いをしなければいけないような気がしてくる。

それは、会社組織に染まってしまったということなのかもしれない。

 

思えば経営陣たちも、責任を末端にまで分散させようとして、ネガティブな数字をただの平社員である自分に繰り返し繰り返し、「どうしたもんかねぇ」とぼやきながら聞かせてきたのかもしれない。それは僕が大人しく会社に隷属することを暗に期待してのことだったと思う……考えすぎか?

でもその策略(?)が功を奏して、実際に僕はサービス残業マシーンになってしまったのだから、まぁ自分の素直さに呆れるというか、損する性格だよなぁと思う。

 

さて、大きなプロジェクトから元々やっていたプロジェクトに出戻りになって、元の鞘に収まったのが去年の11月だった。

この元鞘が厄介で、ろくに見積もられていない癖に期限だけはキッチリ決まっている仕事が山積みであった。

大きな失敗したプロジェクトの方で、日本やベトナムの委託会社との繋がりができたので、いくつかの仕事を委託しようという話になったのだが、僕がキッチリとした見積もりを出してみると経営陣から「高いね」と言われて委託できなかった。

 

「例のプロジェクトの負債を少しでも減らすための仕事だから、ちょっとでも費用は抑えたいよね」という言葉の意味を深く考えずにキッチリカッキリとした工数を出してしまったのが良くなかったのかもしれない。結局委託することはやめて、僕が見積もる前の工数で僕が全てやることになってしまった。

 

元鞘のプロジェクトに入る前、「少しでも負債を減らさないといけないから、基本的に残業は無しでお願いします」と言われた。

最初のころは良かったが、今年に入って本格的に仕事に着手し始めたくらいから、無茶な見積もりのツケを浴びて残業無しでは物理的に無理になった。

そして冒頭で述べたように、サービス残業とサービス休日出勤の労働マシーンになってしまったわけだ。

 

どうしてこんなになってしまったのだろう?

仕事から離れて、散歩している時に、なんで自分がこんなにサービス精神旺盛なのか考えてみた。

 

いままでは、自分は責任感が強い性格なのだろうと思っていたが、責任感が強いにしては、結構途中でタスクを投げ出したりするので、違うような気がしている。

今回のプロジェクトで自己犠牲が多いのは責任感ではなくて、「無駄になった」と思いたくないのだと思う。この思いはたぶん論理的ではなくて、倒錯している。

 

失敗したプロジェクトでは、実は色々な出会いがあった。日本の委託会社の人達との出会い、ベトナムの人達との出会い……。

失敗したことでその人たちとの出会いが無駄になった。見積もりが高すぎて無駄になった。そういう風に実際僕は思っている。

この出会いや経験は、今後どこかで活きるかもしれない。他の会社とのやり方で自分の会社のやり方が必ずしも正解ではないということを自覚できたことはいい経験だった。

でも、自社に戻ったら、また自社の色に染められつつあって、客観的に会社を見れていた目もだんだん閉じてきたと感じている。だからこのまま無駄になっていくと思う。

 

ベトナムのことを思うと切なくなる。彼ら全員を裏切ったことになるのだろうか? あのベトナムの2週間をどういう経験として消化すればいいのか分からない。

ベトナムにはまた行きたいと最近思う。観光して楽しかったというのもあるが、なんとなく、気持ちに踏ん切りがついていない。ベトナムに行けば、自分があの時もただの観光客であったことを確認できると思うのだ。

あの2週間も、自分はただの観光客だった。そう思ってしまいたい。

 

無駄になったと思いたくない。

だから残業代も貰えなくなってしまった。自分の残業代が消えれば、その分だけ委託会社の人達やベトナムの人達に申し訳が立つ気がする。

自社の金銭的な負担の源泉が、委託会社やベトナムへ向かなくなるから申し訳が立つ。と書けば少しだけ論理的になるだろうか? いや、よく分からないな……この理屈は感情的になっているだけだと思ってくれた方が分かりやすい。

つまりはムキになっているだけなのだ。自分でも分かっている。

 

対価の無い労働を行うことで贖罪の機会を与えられていると思い込んでいる。

または、サービス残業の被害者になることで悲劇のヒロインになりたいと思っている。

きっと最近の僕は倒錯している。でも妙な納得感がある。思い込むことで手を動かせる。

そういうめんどくさいメンヘラみたいな気持ちで働いているので、“公”が充実しているなんて言いたくないし、言われたら不機嫌になりそうだ。

 

このプロジェクトが終わった時、自分が何を思うのかは分からない。

刑期を終えたような気持ちになるのか? それとも次の罰を見つけるのだろうか?

 

いままでの自分は月80時間も残業すると熱を出して倒れていたが、ここ2ヶ月はそれ以上に働いても倒れていない。

これは成長なんだろうか? それとも悪い意味での適応?