物ごとをネガティブかポジティブかでとらえるのは危険というか、ネガティブ、ポジティブという言葉自体が危険なのではないかという考えを、もうほぼ確信レベルで体験してしまった。
「ネガティブ」という言葉は、対話の中で使われると、ネガティブなものが何を指しているかは、対話者達は理解できる。
例えば、「こういうリスクがあります」と説明した時に、ある人は、「今はネガティブな話ではなく、ポジティブな話をして下さい」と言う。
この時、誰でもリスクのことを「ネガティブ」ととらえる。それは当たり前の話だと思う。
だが、リスクという言葉の本質は「ネガティブ」ではない。
リスクの本質は「リスクがある」ということだ、リスクは、転じてポジティブにもなり得る。リスクをどうすれば解決していけるかという議論はポジティブである。逆に、リスクを放置することこそが、ネガティブだ。
つまり「リスクがある」ことはネガティブではない。むしろ、リスクをネガティブと勝手に決めつけて、ポジティブな会議の場に出さないようにすることがネガティブになる。
「今はネガティブな話ではなく、ポジティブな話をして下さい」
という話こそがネガティブな話になってしまっているという皮肉がある。
「ネガティブ」という言葉が危険なのは、大いに主観をはらんでいるのに客観性を持っているかのように振る舞うところだ。
この人は、リスクをネガティブなものとして捉えているが、それは主観でしかない。
確かにリスクと聞いていきなりポジティブなことを考える人というのはほとんどいない。だから「ネガティブな話をするな」となった時に、誰もがリスクの話をしてはいけないのだと受けとることが出来た。コミュニケーション上は問題ないわけだ。
だが、ネガティブとポジティブでものごとを二分化して考えると本質を失う。
本質を失い、ネガティブなものを排除した結果、対話はなんだか耳触りがいいだけの能天気なものになる。
誰もが「これはポジティブな話だからやっていいな」と思える話(それらの話も本質が死んでいる。だが、客観的にはポジティブだと判断できる話なのである)だけで組み立てられて、そうなる。
そうなった結果、何も解決しない対話を生み出し、それが種となってどこかで大きな問題として発芽してしまう。というか、したのだ。
余談だが、何事もポジティブにとらえる人もいて、そういう人は酷い目にあっても自分の中ではポジティブなこととして受け入れていたが、その人の周りが代わりに酷い割を食うという状態になっていた。
つまり、なんでもポジティブに捉えることもまた本質を見失っている状態であり、「ポジティブシンキングでいこう」というのはただの洗脳でしかない。だからいつでもポジティブな人というのは個人的にはあまり信用できない。
ネガティブ、ポジティブという言葉が、変に客観性を持っているように聞こえることが、タチが悪い。
なんで客観性を持つのだろう? 僕はこれは、カタカナだからだと思う。カタカナ語には、微妙に認識をズラす力があるように思う。
そういえば少し前、取引先の人が「今度のMTG(マジック・ザ・ギャザリングではなく、ミーティングの意味だ)ですがペンディングでお願いします」と言ってきた。
「ペンティング」とは保留や延期という意味であるらしい。
これも、わざわざ「ペンディング」とカタカナにすることでネガティブな印象を少しズラす技なのだろう。ほら、またネガティブという言葉が出てきた。