魚の感想

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コロナとゴジラへの感情が似てるじゃんって話

コロナウイルスの1日の感染者数が東京で1000人を超え出したあたりから妙なテンションになってきて、自分がコロナに抱いてた感情ってもしかしてゴジラへの感情と同じものなんじゃね? ということに気付いてしまった。

 

ゴジラへの感情というのはザックリ言えば「ゴジラ全部ぶっ壊せ〜!!」という感情である。ゴジラvsスペースゴジラは福岡が舞台なのだが、福岡在住の僕はこの映画が楽しくて「ゴジラ〜! もっと南の方に来い! 弊社を壊しに来てくれ〜!」と心の中で叫ぶ。

 

同じように、毎日コロナが猛威を奮っているニュースを見ると“もっとやれ感”があるのだ。

 

ゴジラを災害的なものとして捉える(昭和ゴジラはヒーローだったりするけど今回は置いておく)と確かに共通点のある二者だが、ゴジラはフィクションで、コロナは現実の脅威という決定的な違いがある。

ゴジラに踏み潰されることは無いが、コロナには明日にでもかかって死ぬ可能性があるのだ。なのに感情ではフィクションと同列のものとして受け取ってしまうのは何なのだろう? 状況への慣れ?

 

理性で考えれば医療従事者や失業するかもしれない飲食業者の苦労は分かる。そういう人たちの事を考えるだけでも「コロナもっとやれ」なんて言ってはいけないことは当たり前に分かる。

でもなんだろう? なんか、政治家とか大物社長や国際組織のトップがひいひい言ってるのを見るのが楽しい。人々が分断されていくのを見るのが楽しい。ツイッターで文句ばっかり言ってる人を見るのが楽しい。オリンピックが延期になったのが楽しい。どんどん縦軸に伸びていく棒グラフを見るのが楽しい。みんなマスク付けて歩いているのがディストピアみたいで楽しい。今までの社会が崩壊していく様を眺めるのを楽しんでしまっている。僕の脳の反社会的感情を形成するシナプスバチバチ働くのだ。

 

僕には失うような子孫も財産も仕事の名声も無い。家族はいるけれど遠くにいるので自分経由で感染させる心配もない。高齢者でもなく、糖尿病や肺炎も持っていないし、感染しても死亡率は低いだろう。そういう人間だからゴジラを見る時のようにこの現実を達観して見てしまっているのだろうか? それは危険思想だろうか? それとも当然の成り行きだろうか?

 

それか、逆に、めちゃくちゃ怖いのかもしれない。

怖くて耐えられないので、できる限りの感染対策をして自分の身を安全圏に置き、ゴジラのようなフィクションと同じものとして無意識のうちに考えて、達観して、精神の健康を守っているのかもしれない。

「いいぞ! 社会をめちゃくちゃにしてしまえ!」とか思ってるくせに感染対策とか手指の消毒とか最新の医療情報に敏感だし、接触確認アプリもちゃんと入れてるのは矛盾ではなくて、そういう心のメカニズムなのかもしれない。

だとすると、これは正常な思考?

 

なんだかもうよく分からなくなってきたのでやめるが、はっきりしているのは「いいぞもっとやれ!」的な感情はあんまり表に出さずに隠しておいた方がいいということだ。そういう感情をぶつける場所はフィクションに用意してあるので、わざわざ現実に向けて投げる必要は無いと思う(自戒を込めて)。

 

今のコロナの大暴れにエンタメ性を感じているのは僕だけでは無いと思ったのでこういうブログを書いてみた。これは、自分もそうだよという意思表明と、自分の感情を文章化したまとめだ。