魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

思想汚染される前に書いた「君たちはどう生きるか」の感想

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見ましたでしょうか? 僕は見ました。

公開まで一切情報を出さないというプロモーション方法のせいもあって、公開当初の世の中はネタバレ厳禁みたいな空気感になっていたけれど、少し経つと評論記事や考察ブログなんかがどんどん出てきて、最近は雑誌で特集が組まれたりもしていて、だんだんオープンになってきた気がします。

 

なので僕も「そろそろいいかな……」という感じで、映画を見た当日に書き殴った感想をネットの海に放流したいと思います。

なにせこのブログのタイトル……「魚の感想」だから。ちゃんとたまには感想ブログを書かなきゃね。

 

というわけで、以下に「君たちはどう生きるか」の感想を載せていくんですが、作品の考察や描写の比喩を言い当てるかっこいい感想にはなっておりません。

この感想は、公開後に出てくる解説記事とか宮崎駿研究者のガチ考察を読んで自分の印象が汚染される前に書いておかねば……という予感があって、急いで書いたものです。

実際、最近の僕はガチの人たちの渾身の考察記事に触れてしまって思想汚染が働いたため、もう「君たちはどう生きるか」を他人の思考なしに自分の感性だけで見ることはできなくなったでしょう。そういうことってあるよね。

 

ちょっと長くなりましたが本当に以下から感想始まります。もちろんネタバレがあるので、注意してください。

 

ネタバレあるよ〜〜〜〜

 

 

 

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君たちはどう生きるか」を見て困った。どう評価していいのか分からない。

評価……? 評価する前提で見るからよくないのだろうか? もっと純粋に、思ったままに書けばいいのかもしれない。

でもこのインターネット社会で評価を大いに含んだ感想を書くことは、一つの参政権のようになっているような気がする。やらなきゃ軽んじられる……みたいな。

 

思ったままを書くならば、映像の迫力や質感というものはとても見応えがあった。

でも、話のプロットとか大丈夫かこれ? 突飛すぎないか? という感じで、宮崎駿じゃなかったらボロクソに言われているんじゃないかと思わざるを得ない。展開が間延びしているのだ。

 

ストーリーは最終的には落ちるような感じがある、しかし多少無理やり持っていった感も否めない。色々と謎が残るのだ(おばあちゃん達の人形とか、お母さんがすんなり現実に戻ったりとか……本当のお母さんの願いが通じた結果?)。

 

小説の「君たちはどう生きるか」が劇中に登場する。

僕は、原作小説については読んでおいた方がいいと思った。読んでおくと真人(まひと)の行動原理が分かる気がするし、作品全体で言いたいことを10%増しで理解できるような気がする。

だが、理解できるとしても10%程度なので、やっぱり別に読まなくてもいいかもしれない(どっちだよ)。

 

そもそも作品のテーマという話(宮崎駿の言いたいことという話)になってくると、もう僕らのような一般の人達には出る幕は無く、重度のオタクやプロの評論家の仕事になってくるので、そういう意味でも、わざわざ原作を読んでその深い領域に踏み込んでいかなくてもいい気がする。

だが、原作を読まずに真人の行動原理が理解できるものなのだろうか?

真人が自分で頭を傷付けて、それを義理の母親が責任に感じ、塔に入っていく。真人は小説を読むまでその罪を自分の中で正当化しているので、義理の母には冷たい。だが、実の母の残した「君たちはどう生きるか」で自分の過ちを見つめ直して、義理の母親を助けに行く……。

そういう行動原理があるという風に僕は考えたのだが、これは小説の内容を知らないと多分たどり着けない。

 

おそらく小説の内容を知らない人達は、実の母親の愛情に触れたことで、真人が本来の優しさを発揮して助けに行ったという文脈で受け取るのではないか?

もちろん真人は元々優しいはずなので、その文脈でも問題はないのだが、ところどころで言動がよく分からないことになるような気がする。

「これが僕の悪意です」と言って頭の傷を示すくだりは、自分の罪を認知していることを示しているはずなのに、小説の内容を知らないとよく分からないのではないだろうか? 火に染まる世界に戻る決断も、小説の中で語られる、人の歴史の壮大さや素晴らしさ、友情の大切さが無ければ、なんでわざわざ現代に戻ろうとしているのか理解できなくなってしまうような気がする。

だから理解の助けのために、やっぱり読んでおいた方がいいのかもしれない?

 

しかし、映画のストーリー自体は本当に原作と関係ないので、ストーリーだけを追っていくなら原作不要なのである。そのことが、言ってしまえばマジでタチが悪い。

 

などと、つらつらと書いているが、上に述べたことが全然間違っているという可能性も全然ある。

上の文章を読んで「あなたはまだ巨匠の作品に対する知識と感性が足りていませんねぇ」などと言われてしまったりするかもしれない。

そういうマウント合戦への殴り込みはしたくない。だからここに書いている。

 

何度か見ると、この作品は愛着が湧くのかもしれない。時系列で整理しながら見ていくと結構面白いかもしれない。ジャンルがSFファンタジーだからだ。

風立ちぬと、ポニョと、千と千尋を足して割らなかった。みたいな作品だと思う。色々と説明不足だし、どこでも話がフワフワしている。

一体どこを楽しんだらいいのかよく分からないから「やっぱり宮崎駿の世界観はすげぇや!」みたいな感想が出てきてしまいがちになってしまうのだけれども、それはつまり宮崎駿じゃなかったらどう思うんだろうと思ってしまう。

 

結局パヤオは「君たちはどう生きるか」を読んでこの作品を作ったのか、何か別に言いたいことがあって小説を利用したのか、謎だ。もう何も考えたくない。あとはお前らだけで勝手にやってくれ。

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バニーガールと怪談

私はこの盆休み、地元に帰って友達とバニーガールラウンジで飲んだ。

そこでは、バニーガールのお姉さん達が隣に座ってお酒のお世話をしてくれたり、お菓子のゴミを捨ててくれたりするのだ。

 

ところで私は人から怪談を聞くのが好きだ。怪談というほど成立していなくても構わない。

ちょっと変な話ってレベルでもいいが、それは実体験であったり、かなり親しい人の話でなければダメだ。そうでないと、リアルさというか深みみたいなものが足りないのだ。

そして、そういう話はいきなり「怖い話とかない?」と聞いてもだいたい出てこない。

なぜか人は急に体験談を求められると話せない、忘れている。こういう話を聞き出すときは話の流れというものが必要である。

 

私はまず、隣に座ったバニーガール(赤いバニースーツを着ていて、ほどよい肉付きだった。歳は20代前半だという、確かにその肌のハリは若々しかった)に、女性だとそういうことはないのかもしれないけれど、温泉に行くとかなりの確率で金玉がめちゃくちゃでかい老人がいたりする。という話をした。

女性だとちょっと分からないかもしれないけど、金玉のでかい老人を見たりすると、自分もいつか何かの病気で金玉が巨大化したりしてしまうのではないかと不安になるのだ。もちろんその老人が病気なのか、単にサイズが大きいだけの人なのかは分からないけれど、パッと見でどうしても何かの病気に見えるんだ。というようなことを言った。

するとバニーガールのお姉さんは、私もハムスターを飼っていた時があって、その時に色々調べたところだと、ハムスターの中には金玉がすごく大きくなってしまう子がいるらしい。それは病気とかではないのだけれど、飼い主はそれを見つけて慌てて動物病院へ連れていく。そして獣医から「金玉がでかいだけです」と言われるだけ、ということがままあるらしい。という面白い話をしてくれた。

私はその話を聞いて笑いつつ、お姉さんの網タイツを見ていた。ちなみにその店では5,000円で網タイツを破ることができるサービスがあったのだが、私を含めて連れの友達は誰もやりませんでした。

 

お姉さんの網タイツを見ながら、私の悪酔い状態の脳はオーバーワークで次の話題を紡ぎ出した。

それはまるで網タイツの繋ぎ目のように粗っぽく私の脳内で関連付けられた話題だった(こう書いておくとなんだか文学表現っぽいので書いておこう)。

「今は何か飼ってるの?」と私は聞いた。

 

「今はハムスターは飼ってないけど、犬1匹と猫1匹飼ってる」

「犬猫はすごいね、家賃とか高いでしょ?」

これは偏見だが、私は勝手に、こういう夜のお店で働いている人は男女問わず犬や猫を飼っていて、家賃が高かったりして困っているイメージがあった。

「いや、家賃はそんなに高くないよ、5万くらいかな」

「5万!?」

月5万円というのはペット可の物件にしては安い。

 

「それ大丈夫なの? 事故物件とかじゃなくて?」

このとき私の中では怪談系の話に持っていこうと決めていて、なんとかこのバニーガールのお姉さんから面白い話を拾えないかと画策していたのだ。

「猫がジッと部屋の一点を見つめて動かなかったりしてる?」

「あっそれめっちゃやってる! ずーっと何もないところ見てる!」

「事故物件じゃん!」私は少し大袈裟に笑ってみる。

「いや、でも! 事故物件じゃないよ! ちがうちがう、多分そういうんじゃない」

「なんかそういう話とか無いの?」

「う〜ん、いや、あるよ? でも猫と関係ない」

そう言ってお姉さんは話を始めた。私は酔いが限界近かったが、途中で相づちを打ちながら、赤のバニースーツが作り出す胸の谷間を凝視して意識を保った。

 

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ある夜、お姉さんは車を走らせていた。するといつの間にかフロントガラスが汚れている。しかも沢山汚れている。なんだ? と思ってよく見てみるとそれは人が触った跡で、沢山の手形だった。

 

お姉さんは、これは明らかにおかしいと瞬時に気付いた。自分の車のフロントガラスを触るなんてこと、彼女は絶対にしないからだ。それに、手形の中には不自然な向きの手形もあった。それは、手首の付け根を上にして付いていたのだ。たとえ不注意で触ったとしても、そんな手形にはならない。

「ひょっとしたら、子供、姪っ子かもしれないと思ったけど、姪っ子は小さいからいつも後ろのチャイルドシートに座らせて、前には座らせないようにしてるし、絶対姪っ子でもないんよ」

 

彼女のその“姪っ子”の言葉の部分にちょっと詰まりがあったので、私は実はその部分に嘘のニュアンスを感じた。具体的にいうと姪っ子じゃなくて自分の子供なのでは? と思ったりしたのだが、そういうところに触れてはいけない。本筋と関係ないし。

逆にいうと、彼女の話にはその部分以外で嘘のニュアンスを感じなかった。

 

それで彼女の言うところでは、それは恐らくその当時付き合っていた男のせいだと言う。

彼女自身も意味不明だったらしいのだが、当時の彼氏は何かに呪われていたらしい。

月に1回お坊さんがお経を上げにくるとか、枕元の壁にお札が貼ってあるとか、他にもお札が家の至る所にあったりだとか……。

「それは、何のためなの?」

と私は聞いたが、彼女は人の家のことなので分からなかったという。ただ彼女は、この人は呪われているんだろうな、と思っていたらしい。

そんな人と付き合っていた時、車に手形が付いた。だからこれは呪われた彼氏の影響であって、今住んでいる月5万円の家とは関係ない。と言うのがバニーガールのお姉さんの話であった。

お姉さんの話はなんだかどこかで聞いたことがありそうな話だが、そこには実体験の生々しさが匂っていた。

 

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「その車はどうなったの?」

「その車は怖すぎて廃車にしたし、彼氏とも色々あって別れたからもう大丈夫なんよ」

そう言いながらお姉さんはテーブルの上のお菓子のゴミとか灰皿を片付けた。お姉さんがテーブルに身を乗り出して、物をいろいろ掴むとき、脇腹からバストトップにかけてできるなだらかな赤い丘陵を横から眺めた。

「それ以外で変なことは無いの?」

「無いよ。車だけ。それで、廃車にしたし、まぁもう大丈夫かなって」

 

ここらへんのなんとも言えない絶妙なタイミングでボーイが来て、時間を告げたので、私たちは店を出ることになってしまったのだが、最後にお姉さんと

「その車って新車だったの?」

「そうだよー。マジでもったいなくない? でも新しい車ももうあるよ」

「そうなんだ。いやぁ残念だったね」

という会話をした。最後にチラッと谷間を拝んでおいた。

 

お姉さんの話は全ての要素が関連しているだろうか? 5万の賃貸物件、車、彼氏はそれぞれ独立した話のような気がするし、全部関連するものとして解釈することもできる気がする。

 

車を廃車にしたから全部解決した。というのはちょっと無理があるような気がする。

呪われた彼氏の影響で手形が出たなら、影響したのは車ではなくて彼女本人のはずである。なのに廃車にしたから解決として大丈夫なのだろうか?

 

猫が部屋の一箇所を見つめて不気味、という話は猫を飼っていればよくある話らしいので、事故物件ではないのかもしれない。しかし月5万円というのは安すぎる気がする。

彼女が5万の物件に出会ったタイミングと彼氏と別れたタイミングを聞いておけばよかった。もし時期が重なっていたら彼氏の呪いが5万の物件を呼び寄せたとか、そんなことを考えてもいいのかもしれない……いや、無理があるかな?

 

つまるところ、お姉さんの5万の物件と車と彼氏の話は、もしかしたら細い糸で繋がっているのかもしれないが、それは彼女の中ではあまり意味を成さない弱い連鎖で、論理的に考えるとすぐに破壊できるのだろう。だから彼女は車を廃車にしただけで満足できたのだ。

そう、バニーガールの網タイツのように、それらの関係はスカスカですぐに破ることができたというわけだ……お後がよろしいようなので、ここらへんで終わりにしようと思う。

 

最後に、この店で1人1万円くらい飲んだのだが、私はあいにく手持ちが7,000円しかなかったので友達に借金しました。

高熱で思い出すゆるウンチ犬

火曜日の仕事中に何度もお腹が痛くなってトイレに行った。そのことを不思議がっていたら、夜中に39℃の熱が出た。


朝まで熱が下がらなかったので、水曜日は仕事を休んで病院へ。とうとうコロナになったか……と思ったのだけれど、コロナもインフルエンザもまさかの陰性であった。

じゃあなんなの? となるところである。


ずっとお腹が痛いので多分感染性胃腸炎ではないかと思うが、結局答えは今も分かっていない。


そこから土曜日くらいまで下痢がずっと続いた。

金曜日の朝に熱は下がっていたので、金曜はリモートワークで仕事に復帰したが下痢は続いていた。

日曜日に、やっと少し下痢が治って硬めのウンチが出た。たが、硬便の後のウンチはまた下痢だった。


結局月曜日になっても下痢の治りは微妙だ。

お腹が痛いわけではない。ただ下痢だけ出てくる。

 

…………


もう死んでしまった実家の犬を思い出した。名前はクッキーといった。

バニラクッキーのような色をした犬だった。

クッキーはいつも下痢だった(下痢って書き過ぎなので、これからは“ゆるウンチ”と書く事にする)。


クッキーは物心ついた時からゆるウンチばかりしていた。そして、物心ついた時から老犬だった。

クッキーは昔の時代に生きた犬らしく、外の犬小屋で飼われていて、家族の残飯が主食だった。


この残飯がゆるウンチの原因なんじゃないかと言われていたが、クッキーはドッグフードを食べなかったので改善できなかった。

残飯といえども、犬用のエサよりも人間の食べ物の方が味が濃くて美味しいのだろうと思われた。


クッキーはゆるウンチ犬なので、普通の方法で糞の処理ができなかった。僕ら家族はクッキーのゆるウンチをホースの水を使ってジャーっと排水溝に流して処理していた。


たまにクッキーが普通の糞をする時があった。

その時家族は、クッキーをおおいに褒めて、みんなで盛り上がった。クッキーが普通の糞をするだけで家族のニュースになった。


「もしかしたらクッキーのゆるウンチが治ったのかもしれない」


みんなでそう言ったが、その次の日のクッキーはやっぱりゆるウンチをするのだった。

 


今の僕は、なんだかクッキーに似ているな。

ゆるウンチ繋がりで、クッキーのことを思い出せた。

 

…………


クッキーはゆるウンチしかしないので散歩の時にウンチを拾うということができない。

でも家族で昔住んでいた家の周りは畑や田んぼが多く(今は再開発で住宅街になってしまったが、それはクッキーが死んだ何年も後の話だ)、クッキーが草葉の陰でゆるウンチをしてもあまり問題にならなかった。

いや、ダメなのだが、ゆるウンチなので物理的に回収ができないのだ。


ある日クッキーを散歩していると、クッキーがある家の前でしゃがみ込んでゆるウンチを始めた。その家の前は思いっきりアスファルトで、というか家の前なので当然なのだが、人の通り道であった。


その通り道の真ん中でゆるウンチをするので大迷惑だ。しかも間の悪いことに、なんとその家のおじさんがちょうどホースで水やりをしていて、おじさんは自分の家の前で他人の犬がゆるウンチをするところをまざまざと見せつけられることになってしまった。

僕は自分の犬がゆるウンチをしているところをおじさんに見せつけてしまった。


流石に僕はマズイと判断して「コラ!」と叫びながらクッキーを引っ張るのだけれど、ウンチの体勢を取った犬というのはだいたい不動である。

クッキーは多少引きづられて動いたが、多少でしかなく、ゆるウンチの軌道ができた。僕はもう観念して

「すみません、うちの犬のゆるウンチを片付けるので、ホースを貸していただけませんか? 全部自分でやりますんで」

というようなことを、ホースで水を撒きながら一部始終を見ていたおじさんに言った。謝罪のニュアンスをこめた。


するとその時のおじさんの返事が意外で、今でも覚えている。

「いいよいいよ、私がやるよ」

そう言っておじさんは僕の申し出を断った。

「いや、でも、申し訳ないので」

「いいんだよ、大丈夫、自分でやるから」

「そうですか……すみませんありがとうございます」


僕はそのまま歩き去った。少しすすんで振りかえると、おじさんがホースの水でクッキーのゆるウンチを近くの排水溝まで流していた。

それは、自分の家でやっていることとあまりによく似ていたので不思議な気分になったのを覚えている。


あの時のおじさんの気持ち、自分の家の前でゆるウンチされている所を思いっきり見てしまった気持ち、10歳かそこらの子供にウンチを片付けるためにホースを貸してくれと頼まれた時の気持ち、それを断って知らない犬のウンチを自分で流す気持ち、どれをとってもどれも今だに分からない。


たぶん一生分からないだろう。そんなこと起きないだろうから。

クッキーは僕が物心ついた時から、ずっとゆるウンチをしていたが、寿命はとても長かった。20年近く生きたと思う。

お坊さんが、あの犬はこの家を悪いものから守っているかもしれませんね。みたいな事を言ったことがある。

そんな犬だった事を思い出せた。

インディ・ジョーンズと運命のダイヤルの感想を喋ったので文字起こし

こんばんわ、魚の精巣です。

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」が公開されたので、歴代のインディを全部みた上で映画館に行ってみようと思い立ち、一気見しながら各作品の感想をTwitterのスペースで喋るということをしました。

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当初は喋った内容を音声入力させて、楽に全作品の感想ブログを作ろうと画策していたんですが、音声入力の限界なのか、僕の滑舌が悪いのか、音声入力が全然使い物にならなかったのでメチャクチャ困っちゃいました。

 

なので妥協して、最新作の「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」の感想だけ、スペースで喋った内容を手打ちで文字起こししたいと思います。

軽率に目標地点を下方修正していくぜ!

 

というわけで、「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」の感想の文字起こしブログです。

なお、喋ってる一言一句をそのまま書くとキショいので、適度に整えたり割愛したりしてます。

 

インディ・ジョーンズと運命のダイヤルの感想(口述)

 

「今帰る道すがらで喋るという、謎のことをやってますが……

あの、見、ました、し、全部見てから、復習してから行って良かったなっていうのが正直な感想ですね。

 

まずちゃんと、インディの私生活が崩壊していたのが逆に安心した(笑)

やっぱ、インディの私生活が順風満帆だったら逆にちょっと嫌だわ。って思ってたから、普通に崩壊してて安心しましたね。

っていうかハリソン・フォードの私生活……ハリソン・フォードじゃねえや、ハリソン・フォード(が演じる)役の私生活がうまくいってるって、あるのかな? っていう(笑)

やっぱちゃんと崩壊していましたね、予告編通りに。

 

あとなんだろうな、モブが……というかもう今回は敵が可哀想だったから(笑)

ナチスも可哀想だし、マッツ・ミケルセンももうちょっといい思いさせてあげても良かったんじゃないか、っていうぐらいの可哀想レベルでしたね(笑)

 

敵がやりたいことというのがハッキリしていて良かった。

逆にインディたちの目的が若干ハッキリしていないみたいなところがあったけど、敵の目的がハッキリしているのと、機関銃で列車をこう……フレンドリーファイアさせられる展開。見てらんねぇよなアレ、敵が可哀想(笑)

 

マッツ・ミケルセンの破滅キャラってなんであんなにハマってしまうんでしょうね? マッツがなんかナチスっぽい顔してますもん。

マッツ・ミケルセン、不幸にしかならないじゃん(笑)

だからまぁ、インディ・ジョーンズはモブが可哀想っていう話でもあるんだなって。

 

あとは、全部見たから言えるっていうか、分かったんですけど、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』と『クリスタル・スカルの王国』を見てから行くと良いのかもなって思いました。内容的に。

たぶん、魔宮の伝説と最後の聖戦を見ても良いけど……メインは失われたアークとクリスタル・スカルの王国なのかなぁって、それさえ押さえておけば楽しい、みたいなところはあるかもしれないですね。

 

あとねぇ、ちょっとやっぱ悲しくなっちゃったね〜ハリソン・フォードが完全におじいちゃんで……まぁでもしょうがないですね。

衝撃なのが、ハリウッドのCG技術が衝撃的すぎて(笑)

予告編でも普通に出てるから言っちゃうんですけど、若い頃のハリソン・フォードがチラッと出るのかな? と思ってたら、ガッツリ出てて、アレどういう技術なんですかね? あれはCGなのかな? 本人がやっててその上から若い頃の顔を貼ってるってことなのかな?(笑)

 

そこの技術が凄すぎて、全然違和感ないから。

もうハリウッドなんでもアリじゃんっていう……そこにね、すごい衝撃を受けました。CG技術が進化しすぎっていうか。

っていうまぁ、一種の恐ろしさ(笑)死者の口をガンガン開けますからねハリウッドは。*1

 

(インディは)クリスタル・スカルの頃は初老の男性みたいな感じだったけど、今回の運命のダイヤルだと本当にガチおじいちゃんという感じで。

もう……なんか……『インディお前もう無理だよ!』ってなるんですけど、本人も『ちょっともう(冒険は)無理かなぁ』と言いつつ、でもやっぱり動ける! というのがね。

まぁでも、足遅いですね(笑)インディ、だいぶ足遅かった。っていうのはありました。

 

あとアレ、若干(上映時間が)長いな、ちょっと長いなというのはありましたけど、まぁでも、内容的に結構それぐらいのボリュームが必要な話の構成ではあったかなっていう感じですかね。

 

とりあえず、やっぱりモブは可哀想。ナチスは可哀想っていう映画でしたね(笑)」

 

以上、感想でした。

いつもそれなりに考えて文章化するような感想が、口述だと脈略がなくてなんか変な感じがするな……。

あと5分くらい喋ってこの文量なので、ちょっと多すぎた。5分は長すぎた。

 

各作品の感想も喋ってはいるので、僕の気持ち悪い声が聞きたい場合は聞いてみてください。

はてなブログTwitter埋め込みの仕様が使いにくくなっちゃったので、リンク消しました。すみません。)

 

インディ・ジョーンズ、面白かった〜ちなみに僕が1番好きなのは『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』です(流石にそこは超えられなかったなぁ)。

ではまた。

*1:スター・ウォーズで亡くなった俳優をCGで再現して出演させたり、エピソード3で死んだはずのシスの暗黒卿をエピソード9で急に復活させたりする

おじさんかき揚げアップデート

世の中では、認識のアップデートが必要だと叫ばれている。

主にジェンダーの多様性や、女性差別となる言動について向けられることが多い言葉だ。

そしてこの言葉は、ざっくり言うとおじさん世代や大組織に対して使われることが多い気がする。若者や女性グループがおじさん達やあらゆる権力に向けて使うイメージがある。

 

良いことか悪いことかは置いておいて、メディアではこぞって“認識のアップデート”が叫ばれているにもかかわらず、“やらかし”は絶えない。

おじさんや大組織のような、凝り固まった認識・価値観を変えさせるのは簡単なことではないのだ。

僕も先日、似たような目に遭った。僕も、おじさんの認識がアップデートされないことによる被害者なのである。

 

今回のブログは社会派だ。だが、内容はくだらない。

 

僕は平日毎日のように50代後半のおじさんとランチに行っている。

なぜ? と思ったかもしれないが、細かいところまで書いていくと面倒くさいので、省く。

とりあえず、バブル世代くらいのおじさんと一緒に働いていて、毎日2人で仲良くランチに行っているのだ。まぁまぁ気を遣っているが、だいぶ打ち解けてきたので最初よりは慣れた。

 

ランチの店は飽きないように毎日ローテーションする。

月曜は居酒屋ランチへ行き、火曜はタイ料理、水曜はうどん───といった感じだ。

 

事件はいつもうどん屋で起きる。

 

僕とおじさんが行くうどん屋はウエスト(九州で展開しているうどんチェーン店。焼肉ウエストというのもあるぞ)だ。

エストにはかき揚げうどんという人気メニューがある。ウエストのかき揚げは美味い。だがちょっとデカイ。

 

このかき揚げのサイズはワンサイズだけみたいで、かき揚げうどん、かき揚ぶっかけうどんかき揚げ丼など、かき揚げが付いてくる全てのメニューで同じサイズのデカイかき揚げがドンッと乗ってくる。

1番ボリューミーなメニューはかき揚げ丼+うどんセットだ。

丼もの+うどんのセットは他にもミニカツ丼+うどんセットや、ミニイカ天丼+うどんセットなどのバリエーションが存在する。

 

お気付きの方もいると思うが、他の丼もの+うどんセットはミニ丼なのに、かき揚げ丼のセットだけはミニではなく通常サイズで出てくるのである。

デカイ。なのに値段は他のミニ丼セットとあまり変わらないので、大食漢の方にはとてもお得だと思います。オススメです。

 

話がズレた気がする。

とにかくウエストのかき揚げ系を頼む時は、自分の腹の具合と相談して注意しなければいけない。

かき揚げの量を見誤ってしまうと腹がピーピーになってしまう。

 

ところで、僕とランチに行くおじさんの好物は揚げものなのである。

ゆえにおじさんは今まで何度もかき揚げ系のうどんに挑戦し、敗戦している。残している。

残すだけならまだ良いが、頑張って食べて、午後からお腹痛くなって、仕事のパフォーマンスを落としたりしている。それは困る。

 

おじさんは、かき揚げ丼+うどんセット(大ボリュームのやつ)がダメだったら、次の週はかき揚げうどんに挑戦し、負けていた。

かき揚げのサイズは全部一緒なんですよ? 大丈夫ですか?」と釘を刺しても聞く耳を持たない。

よっぽど揚げ物が食べたいのだろう。

 

さらに次の週になったら

「このかき揚げ丼+うどんセットは、丼の方はミニかなぁ?」とか聞いてきた。

アンタそのセットは先々週注文してドデカセットに惨敗したヤツでしょうが! と心の中で叫びつつ、口では丁寧に

「それは通常サイズのかき揚げ丼だからめっちゃ量あります! 苦しいと思います!」と注意喚起しても、

「ん〜いけそうな気がする!」と言って注文して、残していた。

 

「これ、量多すぎない?」

というのが、おじさんがかき揚げ系に挑戦した時のお決まりのセリフだ。

 

だからいっつも量多いですよって言ってんじゃん! なんで毎回忘れるんだよ!?

 

本当に、これは一体どういうことなのだろうか? 単純に忘れてる? 覚えてるけど大丈夫だと思っちゃう?

それとも残す前提で注文しているのか? 分からない。

分からないけれど「これ、量多すぎない?」と言っているあたり、かき揚げは量が多すぎるという認識を自分の中にアップデートしていないように見える。

 

正直、おじさんがかき揚げうどんを注文しようとするたびに「大丈夫ですか?」と一声かけるのも面倒になってきている。

もう何も言わなくてもいいのかな? でも、真意はどうであれ「量多すぎない?」という言葉の中には

「お前なんで教えてくれなかったの?」

というニュアンスも含まれている気がするので、ひとこと言っておくことで予防線を張っておかないとなんだか怖い。

それに、僕が「かき揚げは量が多いですよ」と言うのを止めたら、おじさんの認識はずっとアップデートされないまま旧時代に囚われ続けてしまうかもしれない。

 

だが、そのアップデートが行われるのはいつなのだろうか?

 

そして、かき揚げですらアップデートにこれだけ苦労するのだから、複雑な社会問題の認識のアップデートというものはどれだけ大変なのだろうか?

そんなことを思いながら、僕は丸天うどんとかしわおにぎりを注文するのだ。

死体ばっかの夢

久しぶりのブログ更新ですが夢の話です。

 

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野外で授業があるので学校の中庭へ向かう。

木の上でカラスがムクドリの巣を荒らしている。ムクドリはカラスにけたたましい叫び声を浴びせるだけで何もできない。

 

戦争があったから、動物がたくさん死んだらしいという話を周りの誰かがやっている。

 

中庭には、色んな動物の死体がうず高く積まれていた。

種類ごとに綺麗に分類されて中庭を囲むように積まれている死体たちは、全て頭を中央に向けて並べられていた。

一番多いネズミの死体は、青白かったが、ところどころに腐敗が進んでいるような黒ずんだ色の死体もある。

 

他にはウサギの死体、イヌの死体、ネコの死体、ウマの死体、ペリカン・ハト・大きな鳥の死体、トウモロコシの死体(トウモロコシの死体?)、ゾウの死体というように積まれている。

 

どの死体も青白くて、その蒼白な顔を中庭の内側に立つ僕の方へ向けていた。

夢の中の僕は、怖いとか、そんな風には思わない。

中庭の木は葉が落ちて、鮮やかな茶色の落ち葉になっていたから、死体たちの色と落ち葉の色は僕に秋を思わせた。

 

僕は死体の群れの横を通り過ぎて、野外での授業に必要なイスを取りに行かなければならない。

死体たちは僕の身長くらいまで積まれているから、一番下の死体は潰れて息苦しそうだった。

死体、死体、死体死体死体。

こんなに死体があって、腐ってそうなものもあるのに、腐敗臭はしない。少し変なミントのような臭いはする。

「これが死臭か、死臭と腐臭は違うんだな」

と夢の中の僕は思う。実際はどちらも嗅いだことはない。

 

生徒みんなでイスを中庭に出して授業を受ける。

この前のテストの結果を返してもらう。僕の点数が一番低かったらしい。

「君は文章を書くんだからちゃんと書けるはずだろう? どうした、気が抜けて油断でもしたのか?」と先生に励ましを言われる。

僕は惨めな気持ちになった。

 

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っていう夢。

新宿のゴジラを見た話

新宿に初めて行った。

行く前に調べておいたいくつかの観光スポットで気になったのは、紀伊國屋とSOMPO美術館だった。ゴジラは好きだけど何故かゴジラヘッドにはあまり魅力を感じないことに、調べていた当時は不思議に思った。

「新宿はビル群がすごい」というような記事をどこかで見たような気がする。僕は正直建築には興味がないのでその記事の内容は流し読みしたんだと思う。だからあまり覚えていない。

 

実際に行ってみると新宿のビル群は確かにデカかった。建物もデカいし道路もデカい。これで道路の幅が狭ければ背の高いビルから圧迫感を受けるのかもしれないが道路がデカいので街の狭さを感じない。

どこまでも飲食店や繁華街が広がっているんじゃないかという錯覚を受ける、とにかく印象として街のデカさを感じたのだ、福岡の比じゃない。

 

街の狭さを感じないと書いたがこれは新宿という街そのものの話で、新宿を歩くと人が多くてめちゃ狭かった。

例えてみるなら森の中の蟻になった気分だろうか。東京(新宿)が森で人間が蟻だ。森は空間としては広いが地面の蟻は道が決まっているので押し合いへし合いして歩く。よくコンクリートジャングルと言うがまさに言い得て妙だなと思った。

 

さて、建築に興味がないと書いておきながら、泊まるホテルが東京都庁の近くだったのでせっかくだから見ておきたいということで、僕は一緒に来てくれたフォロワーさんにワガママを行って都庁の前を通った。

観光地と言われるだけあって滅茶苦茶デカイ(さっきからデカイデカイとばかり書いている気がする)。物というものは実際に目で見るものと写真や数値で知るものとでは全然違うのだなと思った。写真は風景を切り取ることしかできないが、絵は実際に人間が見ているものに寄せることができる。という話を思い出した。

 

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同時に思い出したのはゴジラのことだ。確か東京都庁は何かの作品でゴジラにぶっ壊されたはず……(後で調べてみたら「ゴジラvsキングギドラ」だった。好きな作品だ)。

都庁を見上げながら、これが壊れるのかぁ〜と考えるとなんだか楽しい。ゴジラという災害のインパクトとかヤバさが実感できる。

 

そこで気付いた。なるほど、都民はこういう気持ちでゴジラ映画を見ているのかもしれない。

現実とフィクションのシンクロ部分を自分の目で確認するのは楽しい、聖地巡礼というやつだ。らき☆すた泉こなたが京都駅で「ここにイリスが入ったのか……」と言ったアレである。

 

しかし都民にとってのゴジラ映画の聖地はわざわざ見に行く聖地というほど遠くではない、もしかしたら職場かもしれない。そういうかなり日常生活寄りの現実とフィクションがゴジラ映画の中で混ざり合い、現実は破壊されていく。

そこに恐怖を覚える人もいるだろうし、快感を覚える人もいるだろう。

ゴジラvsスペースゴジラで「福岡タワーじゃなくて天神とか博多とかで暴れてくれよ!!」と思った僕からすれば、日常がバンバン破壊されてしまう東京都民が羨ましくなった。

 

その日の夜はゴールデン街で飲んだので、歌舞伎町のゴジラヘッドをチラッと拝見したのだが、自分でも意外なほどに刺さらなかった。

 

なんか違うな〜となってしまったのだが、多分その理由はいくつかあって、ひとつはゴジラがビルに埋まってたからだと思う。

ゴジラだったらビルを破壊してほしいのに、ビルに埋まって死んでしまっていた。

周りの人もゴジラがいるのに全然逃げてなかった。ゴジラが来たら人間はみんな地面の蟻のような存在になってほしいのに、歌舞伎町はゴジラなんか気にもせず、地面の光に夢中なようだった。

それに、都庁を見た後だったので「意外に小さいな」と思ってしまったのもある。ゴジラヘッドは実際のゴジラくらいのサイズらしいが、このゴジラで都庁を壊せるのか? と初見一発で思ってしまったような気がする。

 

なるほど、ゴジラヘッドというのは結局のところ建築物だから偽物として見てしまうな……と気付いた。僕は建築には興味ないのである。

昼間に見た東京都庁は、そこに本物のゴジラの影というか幻を見た気がした。夜に見たゴジラヘッドはゴジラの頭が付いたビルだ。そういう風に僕の感性は処理したらしい。

 

どうやら僕はいつの間にか、かなりめんどくさいオタクとしての感性だけを育てていたみたいだ。

それなのにオタクとしての知識や愛は別にそこまでなかったりする。ただのめんどくさい人だ、自分で自分がめんどくせぇ。

 

今回はそれが分かっただけでも良かったのかもしれない、そういうことにしておこう。しといて下さい。

 

ところでゴジラといえば、今度日本で新作があるらしい。監督は山崎貴

山崎貴かぁ〜〜」と、山崎貴作品をちゃんと見てもいないクセに(アルキメデスの大戦とか面白いらしい)下馬票だけで不安になっている。

そういうところがまためんどくさい。