新宿に初めて行った。
行く前に調べておいたいくつかの観光スポットで気になったのは、紀伊國屋とSOMPO美術館だった。ゴジラは好きだけど何故かゴジラヘッドにはあまり魅力を感じないことに、調べていた当時は不思議に思った。
「新宿はビル群がすごい」というような記事をどこかで見たような気がする。僕は正直建築には興味がないのでその記事の内容は流し読みしたんだと思う。だからあまり覚えていない。
実際に行ってみると新宿のビル群は確かにデカかった。建物もデカいし道路もデカい。これで道路の幅が狭ければ背の高いビルから圧迫感を受けるのかもしれないが道路がデカいので街の狭さを感じない。
どこまでも飲食店や繁華街が広がっているんじゃないかという錯覚を受ける、とにかく印象として街のデカさを感じたのだ、福岡の比じゃない。
街の狭さを感じないと書いたがこれは新宿という街そのものの話で、新宿を歩くと人が多くてめちゃ狭かった。
例えてみるなら森の中の蟻になった気分だろうか。東京(新宿)が森で人間が蟻だ。森は空間としては広いが地面の蟻は道が決まっているので押し合いへし合いして歩く。よくコンクリートジャングルと言うがまさに言い得て妙だなと思った。
さて、建築に興味がないと書いておきながら、泊まるホテルが東京都庁の近くだったのでせっかくだから見ておきたいということで、僕は一緒に来てくれたフォロワーさんにワガママを行って都庁の前を通った。
観光地と言われるだけあって滅茶苦茶デカイ(さっきからデカイデカイとばかり書いている気がする)。物というものは実際に目で見るものと写真や数値で知るものとでは全然違うのだなと思った。写真は風景を切り取ることしかできないが、絵は実際に人間が見ているものに寄せることができる。という話を思い出した。
同時に思い出したのはゴジラのことだ。確か東京都庁は何かの作品でゴジラにぶっ壊されたはず……(後で調べてみたら「ゴジラvsキングギドラ」だった。好きな作品だ)。
都庁を見上げながら、これが壊れるのかぁ〜と考えるとなんだか楽しい。ゴジラという災害のインパクトとかヤバさが実感できる。
そこで気付いた。なるほど、都民はこういう気持ちでゴジラ映画を見ているのかもしれない。
現実とフィクションのシンクロ部分を自分の目で確認するのは楽しい、聖地巡礼というやつだ。らき☆すたの泉こなたが京都駅で「ここにイリスが入ったのか……」と言ったアレである。
しかし都民にとってのゴジラ映画の聖地はわざわざ見に行く聖地というほど遠くではない、もしかしたら職場かもしれない。そういうかなり日常生活寄りの現実とフィクションがゴジラ映画の中で混ざり合い、現実は破壊されていく。
そこに恐怖を覚える人もいるだろうし、快感を覚える人もいるだろう。
ゴジラvsスペースゴジラで「福岡タワーじゃなくて天神とか博多とかで暴れてくれよ!!」と思った僕からすれば、日常がバンバン破壊されてしまう東京都民が羨ましくなった。
その日の夜はゴールデン街で飲んだので、歌舞伎町のゴジラヘッドをチラッと拝見したのだが、自分でも意外なほどに刺さらなかった。
なんか違うな〜となってしまったのだが、多分その理由はいくつかあって、ひとつはゴジラがビルに埋まってたからだと思う。
ゴジラだったらビルを破壊してほしいのに、ビルに埋まって死んでしまっていた。
周りの人もゴジラがいるのに全然逃げてなかった。ゴジラが来たら人間はみんな地面の蟻のような存在になってほしいのに、歌舞伎町はゴジラなんか気にもせず、地面の光に夢中なようだった。
それに、都庁を見た後だったので「意外に小さいな」と思ってしまったのもある。ゴジラヘッドは実際のゴジラくらいのサイズらしいが、このゴジラで都庁を壊せるのか? と初見一発で思ってしまったような気がする。
なるほど、ゴジラヘッドというのは結局のところ建築物だから偽物として見てしまうな……と気付いた。僕は建築には興味ないのである。
昼間に見た東京都庁は、そこに本物のゴジラの影というか幻を見た気がした。夜に見たゴジラヘッドはゴジラの頭が付いたビルだ。そういう風に僕の感性は処理したらしい。
どうやら僕はいつの間にか、かなりめんどくさいオタクとしての感性だけを育てていたみたいだ。
それなのにオタクとしての知識や愛は別にそこまでなかったりする。ただのめんどくさい人だ、自分で自分がめんどくせぇ。
今回はそれが分かっただけでも良かったのかもしれない、そういうことにしておこう。しといて下さい。
ところでゴジラといえば、今度日本で新作があるらしい。監督は山崎貴。
「山崎貴かぁ〜〜」と、山崎貴作品をちゃんと見てもいないクセに(アルキメデスの大戦とか面白いらしい)下馬票だけで不安になっている。
そういうところがまためんどくさい。