魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

2024年の初夢。味気なし。

毎年初夢のブログを書いているのだが、今年はなんだか気持ちが入って延び延びになってしまった。

しかし継続は力なりということで、今年も気持ちが入らないなりに、あまり味気のなくなってしまった初夢の話をなんとか書こうと思う。

 

────

ノートPCが鳴る。

そのアラームを止めようと色々な画面操作をしてみるが、全く止まらない。

 

仕事をしている(という認識である)のだが、会社にはいない。どこか知らない部屋で机に向かっている。

というか、机と椅子しかこの世界にはないのかもしれない。僕の認識は部屋ではなく、ノートPCに向いているので、夢の世界での僕は部屋を認識していないのだ。

現実世界であればまだしも、夢の世界で僕が認識していないということは存在しないも同然かもしれない。だがとにかく、机と椅子とノートPCは存在している。

 

どうしてもアラームが鳴り止まなくて僕はイライラしていたのだが、ある瞬間、唐突に鳴り止む。

僕はアラームが止まったことが、僕の何らかの操作による結果だと思い込んで、満足し、横になる。布団と枕がいつの間にか出現していて、その上で横になる。机と椅子は消える。夢にありがちなご都合主義的物理法則だ。

 

一拍置いてリラックスしていると、枕元に置いていたノートPCがまたしても景気よく鳴り響く。僕は飛び起きる。

またガチャガチャとノートPCを操作するが、今度もなかなか鳴り止まない。

しまいに僕はノートPCをバタンと閉める。これで止まるだろう……と思いきや鳴り止まない。

 

一体全体どういう原理でこいつは鳴っているんだろうか? 夢の中の僕は冷静ではなく、もう激しく憤っている。自分の思い通りにモノが動かないという時のイライラは僕は激しいのだ。

とうとう僕は閉じた状態のノートPCを両手で持ち、上へ掲げ、勢いよく振り下ろすと同時に自分の右膝をノートPCの底面に下から叩き込む。

うるさいノートPCを物理的に破壊して止めようとする。

僕の力ではノートPCを両断するには至らなかったが、一応バキッと何かが中で壊れてくれたような気持ちの良いものではない音をノートPCが出す。

 

しかしやはりアラームは鳴り続ける。

 

────

ここで起きた。

枕元でスマホのアラームが鳴っていた。その音は夢の中で聴いたノートPCのアラーム音と全く同じだった。

僕はスマホを持って膝蹴りを……せず、非常に慣れた手つきでアラームを止めた。

 

その日は朝早く起きて実家に帰省する予定があったので、正月休みだけれどアラームをかけていたのだった。

現実で聞いている音が夢の中に入ってくるという現象は結構ある。ただ、初夢でスマホのアラーム音が入ってくるというのは実はレアかもしれない。

正月早々にアラームをかける機会というのはあまり無い気がする。

 

ところで、スマホのアラーム音を現実で聞いていたのに、どうして夢の中ではノートPCの音になるのだろう?

スマホのアラーム音は平日だったらほぼ毎日聞いているから、その経験が夢に反映されて、スマホのアラームが鳴る夢を見てもいいはずである。

しかし、実際はノートPCが鳴る夢だった。夢と現実にギャップが生まれてしまった。

 

人間は外部情報の8割から9割(正確な数字は忘れちゃったけれど、まぁこれくらいだろう)を視覚に頼っているという話は聞くが、本当にその通りで、夢の中という視覚の外部情報が閉ざされている世界で聴覚の外部情報を得たときに、夢の世界の中に具現化するものがちょっと間違ってしまうというのはその証拠の一例な気がした。

 

いや、それとも、これは人によって違うのかもしれない。

最近本で読んだのだが、視覚優位な人と聴覚優位な人、という区別があるらしく、文章じゃないと内容を理解しづらい人と話言葉じゃないと理解しづらい人というのがいるらしい。

僕はどちらかというと視覚優位な人だと思う。仕事の指示は口頭で説明されるとあまり理解できなくて、文章にしてもらわないと失敗する確率が上がる。

だから僕は基本的にめちゃくちゃメモを書く人なのだが、そういうわけで視覚優位だと思う。

もしかしたら僕と違う聴覚優位な人は夢の中の再現率が高いのかもしれない。そんなふうに思った。

 

以上、初夢でした。

もう年末なので今年読んだ本のベストテンを作ろう

年末感のあるブログを書きたいな〜となったので、今年読んだ本のベストテンを作って、それぞれの感想を書いていきます。

今年出版された本じゃなくて、今年読んだ本なので、結構昔の本もあります。

 

あと、長くなってしまって、正直読む方もダルいと思うので、もったいぶって下の順位から書いてくのではなく1位から書いていきます。

何ならもう目次だけ見て「ふ〜ん、こいつこういうの読むんだ」くらいに思ってもらったら、もう読まなくてもいいです。8,000文字くらいあるので……

 

 

1位 タイタンの妖女

今年読んだ本の1位は「タイタンの妖女」としました。名作ですね。

すごく面白かった。というか引き込まれた。

面白くて引き込まれたのだけれど、どういうところが面白かった自分でもよく分かっていない……とにかく面白かったのだ。

面白い! と思ったものは、なぜ面白いのか自分なりに分析して、今後の作品選びに活かしていきたいのだけれど、どこが面白かったのか分からない。

ここらへんに何か大事なものがある気がする。「タイタンの妖女」の中に自分が好きなものが隠れている。

 

なぜ好きなのか、色々考えてみたのだけれど、軽い語り口で繰り広げられるハリウッド映画みたいな壮大な冒険譚かもしれない。どこかふざけた感じの世界観かもしれないし、あの変な歌かもしれない(借りちゃったテント あ、テント あ、テント)。

聖書投資法かもしれない。聖書投資法が明らかになるときの、あのもったいぶった書きっぷりとかズルい。聖書投資法のくだりからズルズルと「タイタンの妖女」に引き込まれた気がする。

 

あと思ったのだけれども、ハングオーバー!と似ている気がする。

ハングオーバー!を観たときに、当時はシュタインズゲートとかバタフライ・エフェクトを見ていたので、「これは逆バタフライエフェクトだ!」と思った。

いくつもの未来が現在の行動で変わっていくバタフライエフェクトではなく、一つの確定した未来に向かって現在が展開していく。ハングオーバー!はそういう話だと思っている。

他にそういう話の構造になっているのはサマータイムマシン・ブルースだろうか?

 

タイタンの妖女も確定した未来に向かってみんなが振り回されていく。ここでいう“みんな”は登場人物ではなく地球と火星の人間みんなだ。

そしてその確定した未来を決めているタイタンの犯人の目的のしょうもなさが、宇宙の壮大さと人間一人ひとりのみすぼらしさを示してくる。

 

しかしタイタンの妖女は人間一人ひとりを丁寧に書く。こいつはこういうやつなんだ、こいつはこういうことを考えている、こいつの大事なものはこういうものだ……といった感じで。単なる説明というわけではなく、人間一人ひとりのキャラクターを魅力的に見せていく。そこに文量を惜しまない。

広大な舞台設定の中で人間の丁寧な描写をすることで、一層人間のみすぼらしさを際立たせているのかもしれない。そういう効果がある気がしてきた。自分は人間のみすぼらしさが好きなのか? そういえば、ここ数年で1番面白かった三体だってそういう話かもしれない。性格悪い人かな?

 

 

 

2位 地球をハックして気候危機を解決しよう: 人類が生き残るためのイノベーション

これは現実だけどもはやハードSFだ。

個人的に、環境問題を追いかけていくのが今最もディストピアSFをリアルに感じることができると思っている。

SFを現実で感じることによって、フィクションとリアルのつながりを自分の中に作れる。その感覚は気持ちいい。だからリアルの中にサイエンスフィクションを求める。

 

ひとつは電力(エネルギー)の供給問題がディストピアSFのいい題材になると思っている。現実にあるこの問題は突き詰めていくとディストピアに到達するはずだ。

もうひとつが気候変動で、電力問題と重なる部分があるのだけれど、もう少し細かい枠組みで考えたときには電力問題と別ジャンルとしてディストピアSFの題材になると思う。

これらが今後のSF業界で熱くなるはずだ(というか読みたいからなって欲しいだけだ)。

 

というわけで、環境系の本をちょくちょく読むことにしているのだが、この「地球をハックして気候危機を解決しよう」は完全に当たりだった。

面白すぎる。もうこれはハードSFです。でも現実なんです。

 

現実の人類ってちゃんと(?)小説の中の人類と同じように無茶苦茶なことをやろうとしたり、やらかしていたりするんだなぁ。

あぁ、小説の中の人類ってフィクションじゃないんだ……フィクションとリアルの繋がりを見つけるために本を探していたら、そもそも最初っから繋がった状態で提供されているこの本に辿り着いてしまった。

 

本の概要を説明していなかった。

この本は、気候危機の特効薬となりそうな方法をどんどん紹介していく本である。コツコツと二酸化炭素の排出量を減らしていくだけでは地球の回復が間に合わない回帰不能点まで来てしまっているという考えに立ち、それならば無理やり環境を人間の手で手術してやれ! という発想で考えられた色々な事例を紹介する。

例えば

  • 街全体を白く塗って太陽熱を反射させる
  • 都市部の豪雨水害防止のため、あらかじめ山間部で人工的に雨を降らせる
  • 海に鉄を撒く
  • ラグランジュ点に太陽光を遮る“パラソル”の役目をする人工衛星を大量に設置する
  • 地下都市計画
  • 氷河が溶け落ちるので下から支える

等々。みんな真剣に考えているのがいい。これはSFだなぁ。

 

それは無理だろっていう方法はちゃんと無理だし、それなら行けそうだっていう方法もまだまだ現実的じゃない。

地球が壊れるのが先か、我々が地球のサイボーグ化手術に成功するのが先か、その戦いに将来はなっていくのかもしれない。う〜んSFだなぁ。

 

 

3位 ハレルヤ

言ってしまえば、余命いくばくかの飼い猫の延命治療記なのだが、作者が保坂和志なので単なるお涙頂戴の感動ストーリーではない。

この作家の猫に対する洞察からくる描写は、他の小説の猫の描写と比べると異質で、この作家は猫を猫としてしか描写しない。

 

動物番組とかで動物にアフレコしたり、吹き出しを付けたりして、動物が人間のように考えて物を喋るなんてことがあるがそういう事をこの作家はしない。

だが、猫が何も考えていないし、人間の言葉や考えを理解していないとも言わない。

猫は人間の意思が分かるし、猫も人間に伝えている。だがそれは言葉ではない。言葉を超えたものだ。そういう事をこの作家は書いていく。

 

余命わずかな猫との対話で気付いた、言葉を超えた繋がりを丁寧に書き留めていく。

その日々が、特に飾らない素朴な言葉で語られていく。

筆致はなんて事のない日常だ。死に向かっていく日常だけど……。でもその少し悲しい日々がだんだん輝きを帯びてくる感覚に読んでいる僕はなる。

 

作者はある日、動物病院の近くの公園で、猫を芝生の上で遊ばせていて、そのとき老夫婦が近くを通りかかる。

作者は老夫婦の会話を耳に入れながら、草の上にいる猫を見て泣いてしまう。

このシーンの美しさを僕は人に伝えられる気がしない。無理だ、言語化できない。

 

この作家の文章を読んでいると、僕はだんだん何かの真理に近付くというか、何かとんでもないものの側に座っているような気分にさえなってくる。

 

あと、猫を飼っている人は、色んな治療法とかが出てくるので読んどいたら何かの役に立つかもしれないと思った(急に実用的な話になった)。

 

 

4位 ポロポロ

ベースは戦争の体験記なのだけれど、冒頭に宗教家の父親が「ポロポロ」をやっていた。というエピソードが入る。

ポロポロとは何か? 僕には説明するだけの語彙が無いのだが、物語を物語ってしまうことで避けられない矮小化への反抗のようなもの、と書ける。

 

……つ、つまり、戦争の経験を物語化する事で戦争が物語の形に固定されてしまうわけだが、戦争が物語として固定されてしまっていいのか? という気持ちが作者にあり、その反抗がポロポロなのだ……って書いてて自分でもよく分からない。

 

戦争の物語への固定化というのは、戦争がフィクションになるということではなく、死んでいった者達、見たもの聞いたこと、そういう悲惨な全ての物が物語という1人の人間の作ったものに固定されてしまう事である。

作者は物語化への危機感というか罪悪感があって

物語化を忌避している。

 

しかし当たり前だが物語にしないと人には伝わらない。

伝えたいけど物語りたくない。その葛藤を文章から感じる。戦争体験記なのに文体がめちゃくちゃ淡白なのだ。

そして、葛藤した末に作者はポロポロにたどり着いている。

答えではないが、子供の頃に父親が信者たちの前でやっていたあの「ポロポロ」が一番答えに近いのではないか。ということが本の最後で語られて、冒頭の「ポロポロ」に繋がっていく。

 

つまりこの作品は戦争体験記であり、実験的哲学書なのだ。

 

 

5位 海洋プラスチックゴミ問題の真実: マイクロプラスチックの実態と未来予測

今年は海洋プラスチック、もといマイクロプラスチックにちょいハマりした。

ちゃんと知識として仕入れようと思った時に読む本は、結構しっかりとネットでリサーチすることにしている。

変な人の書いた本だと変な知識や妄想が入ってきちゃうので、それは避けたいのだ。

 

この本は本当に海洋プラスチックの研究に大きく寄与している研究者、というか大学教授が書いていて、しっかりとしていて良かった。

 

内容もかなり面白い。

海洋に流出したプラスチックに90%が見つけられないって知らなかった。ロマンがある。

自分はこういう“実は知らない”というものにロマンを感じる。

 

そもそも海洋プラスチックに興味を持ったのも、エコバックや紙ストローって意味あるの? と思ったからだった。あいつらの効用がよく分からなかった。

よく分からないけど世の中に出回るものに謎を感じる。果たして紙ストローって意味あるのか?(ちなみに意味無くはないらしい)

 

こういう身近なところの謎の裏には陰謀が隠れているのだと、陰謀論者のようなことを考えてみるのが楽しい。

いま、これを福岡天神のドトールで書いているが、窓の向こうに黄色の天神愛眼ビルがある。

天神は再開発で古いビルがほとんど取り壊されたのに、天神愛眼ビルだけはポツンと生き残った。決して客の入りの多くなさそうなあの黄色いビルに、何かの権力の気配を感じる……などと書いてみる。

 

だいぶ脱線したが、海洋プラスチックゴミも身近な謎で、身近な問題なのだ。

この本のおかげで、海洋プラスチックについて今何が分かってて、何が分からないのか、おおよそを掴めた気がする。人に話すいいネタになった(他人が海洋プラスチックの話を面白いと思ってくれるかは定かではないが)

 

 

6位 大渦巻への落下・灯台 ポー短編集III SF&ファンタジー

エドガー・アラン・ポーを初めて読んだ。

これはフォロワーさんにオススメしてもらった本である。

 

実は今回のランキングはフォロワーさんにオススメしてもらった本が結構出てくるのだが、人からオススメしてもらったからランクインしてる訳じゃないというのは予め言っておきたい。

その証拠に、オススメしてもらったけど全然ハマらなくて感想ツイートが出来なくて困るということがあった。

本のことについてツイートを控えていた時期が実はあったのだが、そういう理由である。

 

人からオススメしてもらったものが全然好きじゃなかった時ってどうすればいいですか?

 

話をポーに戻すと、この本は短編の「灯台」が面白くてランクインした。

灯台」はすごい。なんだこれは! すさまじいセンスだ! ここで話を切るのすげー!! と思って解説を読んだら、なんと途中で亡くなっていたため凄いところで話が切れているらしくズッコケた。

 

だが途中であることは、またその続きを連想させる。

灯台」の発想をベースにレイ・ブラッドベリの「霧笛」が生まれ、色々あってゴジラまで繋がる父系が存在するのは、ゴジラ好きの自分にとってはテンションが高まる。

 

灯台」、短いしオススメです。

全然好きじゃなかった時は、どうすればいいか困って下さい。

 

 

7位 一私小説書きの日乗 憤怒の章

西村賢太を読んだ。と報告したらフォロワーさんが教えてくれた西村賢太の日記作品の一つ。

日記文学というあまり馴染みがなかったジャンルの本であることも手伝って、新鮮で面白かったのでランクイン。

 

日記文学というものはエッセイみたいなものなんだろうなと思っていたら、違った。少なくとも西村賢太の日記は違った。

起きて飯食ってQさまに出て、酒を購(もと)めて飲んで寝る。というサイクルをだいたい繰り返して、たまに自分の原作の映画に文句を言ったり、ビートたけしと飲んで感激したりしていた。

毎日何か書いて面白いような出来事があるわけではない。なので、何も無ければ基本的なサイクルをただ書けばいい。

何か嫌なことがあっても「嫌なことがあった」とか、割と淡白に書く。もしもたくさん書きたいことがあった日は大量に書く。という感じで、かなり自由で楽そうだった。

 

なるほど、こういうのでいいのか。と僕の中で何かが開かれた。

それで今年の8月から日記を付け始めた。それで12月の今に至るわけだが、なんと今のところ1日も欠かさずに書き続けている。

これは西村賢太的日記術である(勝手にそう呼んでる)。

 

そういうわけで非常に実用的な発見を得ることができたためランクイン。僕にとっては日記の指南書なのである。

 

ちなみに日記は絶対に公開しない、というかできない。思いっきり仕事の内容を書いちゃってるので無理です。

 

 

8位 ラストダンス

こちらもフォロワーさんにオススメしてもらった野球小説。

野球は日本文化の色んなところに進出していると分かってはいたけれど、まさか「野球小説」という小説の一ジャンルになっているとは知らなかった(こうして挙げていくと、今年はいろんなジャンルに手を出した1年だったみたいだ)。

 

同い年だけど全く別々のキャリアを歩んできたピッチャーとキャッチャーが、引退する最後の年にバッテリーを組んで完全試合を成し遂げようとする話である。

僕はあまり野球に詳しくない。基本的なルールが分かるくらいで、正直、完全試合ってどういうことなのか分かってなかった。

 

この本によって野球への理解が少し深まった気がする。観戦しているだけではわからないプレイヤーの気持ち……キャッチャーは試合中に何を考えているのか、ピッチャーはどういうタイプの人が多いのか、野球選手の仕事はどういうものなのか、引退前はどういうことを考えるのか……などなど、異文化を覗いている気分になれてとても新鮮だった。

 

とはいえ、作中で語られる野球用語の分からなさったらない。

野球というものはルールが複雑な割に、ルールくらいは既知のものとして語られることが多い。これは小説だけではなくて、中継とか、バラエティとかでもそうだ。それは日本の中で野球が超メジャーだからだと思う。

この本を読むとき、あまり野球を分かっていない人には専門書のような難解さ……いや、別の分野の視座といった方がいいのか、そういうものが与えられることになる。

「野球小説」を読むことで強制的に野球の世界に飛びこむことができるのだ。そういうジャンルなのだなぁ、という気付きがあっていい経験になった。

 

 

9位 カラスの教科書

積読期間10年(2013年1月購入)。

もう……10年かかって本を読み終わったという達成感だけでとりあえずベストテンにランクイン。

そして、10位に挙げている「キリスト教美術史」と比べると、より生活に近いところでタメになる知見を得られたな、という理由で9位にランクインさせた。

 

カラスというのは街に溢れているので、本を読んで知識を実践する機会がすぐにあるのが嬉しい。朝出勤する時に見るカラスへの視線が変わると出勤が少しだけ楽しくなる。

「今、俺が見ていることをあのカラスは分かっているな」とか、「あのカラスはハシブトガラスだな……たぶん」とか考えながら歩ける。

 

印象に残っているのは、カラスにとって人間は巨獣なので、基本的に怖がっているという話だ。

道端でたむろしているカラスは少し怖いが、こちらが避けなければカラスの方から避けてくれるらしい。カラスも巨獣に近付かれたら逃げたいらしいのだ。ただし、人間がしょっちゅう避けるようになってしまうと学習してふんぞり返るらしい。

この知識を知ってから、僕はカラスに向かっていくようにしている。

 

カラスを意識して見るようになると、上を見上げる機会が多くなる。

カラスに限らず、鳥たちは街を巨大な森だと思っているらしい。電柱やマンションは木だ。マンションのベランダは木のウロだ。ビルは断崖だ。

人間は森にやたらいるサルで、ゴミ袋はサルが殺して捨てた動物の死骸(薄皮を破ると食べ物が出てくる塊のため)だ。

上を見上げているとそのことを意識して、街の景色の解釈が少し変わる。カラスを見る目が変わることで、連動して街も違う風景に見えてくることがまた楽しい。

 

こういう風に、動物側の視点で物を語る話が好きだ。我々は人間だから何でも人間目線で考えてしまうが、そういう別の生き物の目線を知ることでもう少し人生が豊かになる気がする。

 

 

10位 カラー版 キリスト教美術史 東方正教会カトリックの二大潮流

イコン画に興味があったので購入。

結構自分はルネサンスとか写実的な絵よりも印象はとかイコンとか、そういうリアルな感じじゃない絵が好きなのかもなぁ、というのが分かってきたので、イコン芸術について少し知識を深めたら面白いんじゃないかと思ったから買った。

実際面白くてタメになったので10位にランクイン。

 

キリストの名場面を絵にするためのイコン画なので、現実の整合性をどんどん無視するのが面白い。

大人のキリストと子供のキリストを同じ画面に描いたり、キリストの洗礼の場面を描く時に、洗礼する川の形をあり得ない形に変えてしまったりする。

※洗礼はキリストの全身を川の水に浸したが、絵にする時に、画面の構成上では水に沈んでいるキリストを描けない(キリストを画面の真ん中に描かなきゃいけないから)。そのためキリストを川に沈めるのではなく、川がキリストの形に曲がって流れているような絵になっている。

 

上手な絵ではなく崩壊した絵なのだけれど、信仰上はそれで良い。みたいな、異なる価値観で描かれているのがイコン画は面白い。

そもそも絵なんだから絶対にリアルに描かなければいけないわけでもなくて、逆にリアルじゃないことで神秘性が増すという理屈があるらしい。

それはどういうメカニズムでそうなるのかピンと来なかったけれど、確かに写真という超写実的な絵がある現代だと、リアルな絵というもののありがたみは薄れているのかもしれないので、そういう感覚が関係しているのだろうか、などと思った。

 

とにかく、この本で新しい知見があったというか、イコン画げの興味がさらに湧いた。

この本はイコン画以降のキリスト教美術(バロックとかルネサンスとか)も紹介しているけれど、自分の興味は確実にイコン画だった。

 

ちなみに自分は、リアルじゃない絵が好きと最初に書いたが、抽象画まで行ってしまうと本当に何が描いてあるのか分からないので、あんまり好きじゃないです。

 

 

以上、2023年に読んだ本のベストテンでした。

ここまで読んでくれた人がいたらありがとうございます。

他人の感想文を8,000字も読むなんてのは凄いことですよ……

それではみなさんメリークリスマス!

全く面白くない「ネガティブ」についての文章

物ごとをネガティブかポジティブかでとらえるのは危険というか、ネガティブ、ポジティブという言葉自体が危険なのではないかという考えを、もうほぼ確信レベルで体験してしまった。

 


「ネガティブ」という言葉は、対話の中で使われると、ネガティブなものが何を指しているかは、対話者達は理解できる。

例えば、「こういうリスクがあります」と説明した時に、ある人は、「今はネガティブな話ではなく、ポジティブな話をして下さい」と言う。

この時、誰でもリスクのことを「ネガティブ」ととらえる。それは当たり前の話だと思う。

 


だが、リスクという言葉の本質は「ネガティブ」ではない。

リスクの本質は「リスクがある」ということだ、リスクは、転じてポジティブにもなり得る。リスクをどうすれば解決していけるかという議論はポジティブである。逆に、リスクを放置することこそが、ネガティブだ。

 


つまり「リスクがある」ことはネガティブではない。むしろ、リスクをネガティブと勝手に決めつけて、ポジティブな会議の場に出さないようにすることがネガティブになる。

「今はネガティブな話ではなく、ポジティブな話をして下さい」

という話こそがネガティブな話になってしまっているという皮肉がある。

 


「ネガティブ」という言葉が危険なのは、大いに主観をはらんでいるのに客観性を持っているかのように振る舞うところだ。

この人は、リスクをネガティブなものとして捉えているが、それは主観でしかない。

 


確かにリスクと聞いていきなりポジティブなことを考える人というのはほとんどいない。だから「ネガティブな話をするな」となった時に、誰もがリスクの話をしてはいけないのだと受けとることが出来た。コミュニケーション上は問題ないわけだ。

だが、ネガティブとポジティブでものごとを二分化して考えると本質を失う。

 


本質を失い、ネガティブなものを排除した結果、対話はなんだか耳触りがいいだけの能天気なものになる。

誰もが「これはポジティブな話だからやっていいな」と思える話(それらの話も本質が死んでいる。だが、客観的にはポジティブだと判断できる話なのである)だけで組み立てられて、そうなる。

そうなった結果、何も解決しない対話を生み出し、それが種となってどこかで大きな問題として発芽してしまう。というか、したのだ。


余談だが、何事もポジティブにとらえる人もいて、そういう人は酷い目にあっても自分の中ではポジティブなこととして受け入れていたが、その人の周りが代わりに酷い割を食うという状態になっていた。

つまり、なんでもポジティブに捉えることもまた本質を見失っている状態であり、「ポジティブシンキングでいこう」というのはただの洗脳でしかない。だからいつでもポジティブな人というのは個人的にはあまり信用できない。

 


ネガティブ、ポジティブという言葉が、変に客観性を持っているように聞こえることが、タチが悪い。

なんで客観性を持つのだろう? 僕はこれは、カタカナだからだと思う。カタカナ語には、微妙に認識をズラす力があるように思う。

 


そういえば少し前、取引先の人が「今度のMTGマジック・ザ・ギャザリングではなく、ミーティングの意味だ)ですがペンディングでお願いします」と言ってきた。

「ペンティング」とは保留や延期という意味であるらしい。

これも、わざわざ「ペンディング」とカタカナにすることでネガティブな印象を少しズラす技なのだろう。ほら、またネガティブという言葉が出てきた。

ホップ・ステップ・葛根湯

今週のお題「最近飲んでいるもの」

はてなブログのお題機能を使うのは珍しいのだが、ちょうど自分にはまっているお題だったので使ってみる。

さいきん葛根湯を飲んでいる。理由は、寒いから。

葛根湯は風邪を引いたときに飲んでも効かない。葛根湯が威力を発揮するのは風邪を引く3歩手前くらいである。

 

「熱を測ったら微熱があった」そういう時はもう遅い。もうそれは風邪の引き始めなので葛根湯は効かない。

「ノドが痛いな」「鼻水がひどいな」そういう時も遅い。風邪がどこから来ているかわかる時はベンザブロックの出番だ。

「ちょっと体調がおかしいな」って時も遅い。そういう時にも葛根湯は効かない。もう少しだけ早くないといけない。

「最近寒いな」ここだ。このタイミングである。

 

「最近寒いな。そうだ、葛根湯を飲もう」

「今日は疲れたな。そうだ、葛根湯を飲もう」

「今はなんともないけど明日は月曜日だし元気が無くなりそうだな。そうだ、葛根湯を飲もう」

こういうタイミングで葛根湯を飲むのが正解である。

 

葛根湯は風邪を引く3歩手前で飲まなければいけないから、葛根湯の効果を実感することはない。

葛根湯を飲んでいなければ風邪を引いていただろうなという一種の知的自尊心のような、全能感のようなものを得るために葛根湯を飲むのだ。

 

ところで自分は、葛根湯のおかげで風邪を引かないのかと聞かれると……普通に風邪を引きます。

風邪ってやつは手前の段階を飛び越えて急なジャンプでやってくる時があるので、そういう時は、葛根湯では無理なのだ。

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福岡市総合図書館に月一で「群像」を読みにいってる

好きな作家に保坂和志という作家がいて、少し哲学的な猫の小説とかエッセイみたいな小説(小説という体で書かれているけれど、これは小説じゃなくてエッセイだろと思わずにいられない小説)をよく書く人なんだけれども、この作家が「群像」という文芸雑誌で連載をしている。タイトルは「鉄の胡蝶は歳月は夢に記憶に彫るか」という。

これが難解な文章で、難解というと難しい言葉や漢字が使われているのかというとそんなことではなく、その時々の自分の考えや頭の中を整理せずにそのまま出力された文章、という感じなのだ。

 

僕は、流石にこの「鉄の胡蝶は〜」は小説とは呼べないだろう、エッセイだろうこれは、いや、エッセイでもないのか? と思っている。

少なくとも小説ではないはず……でもこの人の「あさつゆ通信」という子供時代の思い出を現在の自分がうろ覚えで書き出していく連載(今は文庫化されていて僕はそれを持っている)(積読している)も、ジャンルは小説らしい、もう分からんな……。

というか「鉄の胡蝶は歳月は夢に記憶に彫るか」ってタイトルの意味もよく分からん。タイトルからして“てにをは”が狂っている。つまりそういう文章を書く作家なのだ。

 

兎にも角にも、そういう“文章”が毎月「群像」で読める。

保坂和志という作家は自分の実体験をベースにした作品が多いので、僕は作家の最新の文章が読みたくて、今年の夏くらいから「群像」を毎月読んでいる。

「群像」を毎月読んでいると書いたが、これはウソで、ぶ厚い「群像」を毎月全て読む能力など当然僕には無い。ジャンプくらいぶ厚いのだ。

読んでいるのは保坂和志の「鉄の胡蝶は〜」と、岩内章太郎の「星になっても」くらいで、あとは気になったやつをナナメ読みしている。

だから「群像を毎月読んでいる」と書くと語弊があるというかウソになる。

 

「群像」は1500円くらいする。毎月全部読むなら割安だが、2つしか読まないなら正直高い。あとぶ厚いので家に置いておくのが辛い。ジャンプくらいぶ厚いんだってば。

というわけで毎月「群像」を買うのはちょっと金も家のスペースも勿体ないな、という乞食根性が働いてしまっている。かといって立ち読みできるほど保坂和志の連載は気楽に読めるものではないので、どこかでタダで読めねぇかなぁと色々調べた結果、月一で福岡市総合図書館に通うことにした。

偉い人は買わないことに対して怒っておいででしょうね。ゴメン。

 

福岡市総合図書館は確実に福岡市で1番大きい図書館であり、福岡県でも1番大きいんじゃないかと僕は考えているんだけれど、それは調べていないので分からない。でも本当にそれくらいデカい。

なにせ国連の資料とか、国会の議事録が手に取れるところの本棚に収まっているし、とにかく見たことのない本が沢山あるのだ。そんな本棚を一つひとつ見ていくと疲れる。単純な歩く面積が広いのもあるが、大量の本、というか大量の本の背表紙から想像できる空間内の情報量の多さにめまいがしてくる。

そして迷子になる。

 

目的もなくただ本棚の洞窟をウロウロしていると不安になるのだ。

大型書店も同じくらい大量の本があって歩き疲れたりするが、書店は目的なくフラッとやってきた人に対しても購買意欲をかき立てるために本の見せ方を工夫して本を選ばせようとしてくる。オススメの本を平積みしたり、出版社のフェアコーナーを作ったりしてだ。

だが図書館では資本主義的な本たちの競争は起こらない(なんせ僕みたいな本をタダ読みしようとしている人が来ているのだから)。なので、本たちが媚びてこないのである。

だから何を読むか考えずにウロウロすると迷う、本が大量にあるのに読みたい本が一つもない、何を読めばいいか分からなくて悲しい感じになる。

 

僕は悲しい感じの人にならないように、図書館(特に福岡市総合図書館)に行くときは何を読むか決めてから行くようにしている。「群像」をまずは読もう、時間があればアレを見つけて読もう、といった具合に。

 

ところで福岡市総合図書館は福岡タワーのふもとにある。福岡タワーはPayPayドームの少し先にある。他に福岡タワーのふもとにあるのは百道浜(ももちはま)というビーチや博物館だ。

僕は図書館に行くときは福岡タワーの目の前を通るが、福岡タワーには登ったことが一度もない。福岡タワーからしてみれば

「お前今日も俺を無視してそっち行くんや?」

って感じだろう。

なんとなく気まずいから、今度余裕があったら登っておきたいと思っている。

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ベトナムの犬

ベトナム出張の話を書こうと思ったのですが、なんせ仕事で行っているので何でもかんでも書くと情報漏洩になっちゃいそうです。

 

なので断片的な事を書いていく事になるんですが、じゃあなにを書こうかなぁ……となって写真を見返すと犬をいっぱい撮っていたので、ベトナムの犬のことを書きます。


ベトナムに来る前は「犬に噛まれると狂犬病の危険があるから注意」という情報をどこかで見ていたんですが「ゆうてダナン(滞在した都市)は都会だし大丈夫だろ」と思っていたところ、蓋を開けてみると犬めっちゃいました。


犬いっぱいいるしほとんど全ての犬が放し飼いにされています。

最初は野良犬かと思ったけど、どうもちゃんとペットとして飼ってるっぽいです。

というか“野良犬”という言葉をお世話してくれたベトナム人が誰も分からなかったので、野良犬という概念自体が薄いのかもしれない。野良犬も他人のペットも同じだから。


最初のダナンの1週間はずっと雨だったので、外で犬に出くわすと彼らはずぶ濡れで街をうろついており、雨垂れの間を縫って家々の軒下から軒下へ移動していました。

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その姿を見るとどこか特定の家の飼い犬とはどうしても思えなかったので「いやあれ絶対野良犬でしょ怖〜!」と思っていたんですが、何日か過ごしていると、犬と人間の距離が妙に近いのに気付きます。


道の木にハンモックをかけて寝ているオッサンの真下で爆睡するトイプードル(ハンモックが切れてオッサンが落ちてきたらたぶん死ぬ)とか

 

残飯をあさった後残飯がもらえないかちょっと待ってみて、何もくれなかったらどっか行く犬(あの犬、この店の犬じゃないんか? ってなった)とか

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人間が犬をそういうものとして認識している、犬は居るもの、噛んだりしない。っていう認識でいるから犬も“ふてぶてしく”なってる。


なるほど、つまりベトナムの犬は“ふてぶてしい”から噛まないな。と気付いた僕はそこから犬の写真をよく撮るようになりました。

僕は犬が好きなのです。

 

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ベトナムの犬は「おっ犬だ」と言うとこちらに気付きます。日本語が分かるのでしょう。

 

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ベトナムの犬は道路を渡る時にちゃんと左右確認して渡ります。この犬も車が来る方向(ベトナムは右車線)を見て渡ります。

 

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この子のように首輪をつけている犬もいるけれど、基本的に首輪もせず放し飼いです。

この犬がいたのはホイアン(めっちゃ観光名所)なので、そういうところでは飼い犬アピールをしたりするのかもしれません。

 

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この2匹は片方だけリードに繋がれてます。何か事情があるのか。

 

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日本と同じくトイプードルが人気なのか、結構いました。トイプードルも放し飼いです。

 

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人を恐れず歩道でふんぞり返る。それがベトナムドッグスタイル。


ところで僕の仕事相手で今回たくさんお世話になったテイさんと犬の話をしたところ、日本の犬は高過ぎる! と言っていました。日本のペットショップに行ったら値段の高さにビックリしたそうです。

 

僕は、ペットショップは高いけど保健所でもらったらほぼタダだとを教えてあげました。

その流れで日本の犬は放し飼いにしてたら保健所に捕まってしばらくしたら殺処分されることや、殺処分前に貰い手が見つかったら助かるということを伝えました。


「どうして捕まえてしまうんですか?」

「1番は狂犬病が怖いからですよ。それに野生でどんどん増えて管理できなくなるとか、そういう理由も色々とあるでしょうね」

 

そういうことを話しながら、僕は自分の言葉のニュアンスがテイさんにどういう様に伝わっているのか気になってしまいました。

 

なんだか、ベトナムの犬は日本の犬よりのびのびしていて幸せだ。とか……

ベトナムは犬の管理が出来ていないので危険だ。とか……

このどちらかのニュアンスで伝わってしまったような気がしたのですが、僕としてはどちらのニュアンスでも伝えるつもりはなかったのです。

 

僕はただ「日本の犬はこうだよ」という事を伝えたかったのに、喋っていると何故かどうしても比較のニュアンスのようになってしまう。

こういった嫌でも比較して考えたり、何かを喋らされる状況をベトナムでは何度も経験しました。

でも僕はベトナムの犬を見て日本の犬と比較したくはなかった。

 

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これは全然言語化できていないのだけど、彼らは犬としてそこにあるだけというかベトナムの景色の中に綺麗に馴染んでいるだけで、「日本の犬よりも幸せそう」というような事は僕は思わなかったのです。


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彼らは首輪を付けられていない分、日本の犬よりも自由なのかも知れないけれど、だからベトナムの犬の方が幸せ……っていう論法はちょっと雑だと思うし、そもそも犬自身が「我々は日本の犬よりも幸せだワン🐶」なんて比較して考えることは無いので、人間の側に立ち過ぎた考え方のような気がするのです。

 

だから前述したニュアンスで伝わるとちょっと違うな……と思ったのですが、肝心のテイさんの反応は

「ふぅ〜ん」

でした。

 

テイさんが何を感じたのか、僕の言葉をどういうニュアンスで受け取ったのかは結局分かりません。

 

テイさんはバリバリ日本語ができる人なのですが、こういう“もどかしさ”も結構あるので、また違うベトナムの話を書く時にもどかしさを感じた話が出てくるかもしれません。

まぁ、言葉を伝える時のもどかしさは日本人同士も一緒か……言語の壁って同じ言語同士でもあるんだなぁ。

 

というわけで、犬の話でした。

思想汚染される前に書いた「君たちはどう生きるか」の感想

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見ましたでしょうか? 僕は見ました。

公開まで一切情報を出さないというプロモーション方法のせいもあって、公開当初の世の中はネタバレ厳禁みたいな空気感になっていたけれど、少し経つと評論記事や考察ブログなんかがどんどん出てきて、最近は雑誌で特集が組まれたりもしていて、だんだんオープンになってきた気がします。

 

なので僕も「そろそろいいかな……」という感じで、映画を見た当日に書き殴った感想をネットの海に放流したいと思います。

なにせこのブログのタイトル……「魚の感想」だから。ちゃんとたまには感想ブログを書かなきゃね。

 

というわけで、以下に「君たちはどう生きるか」の感想を載せていくんですが、作品の考察や描写の比喩を言い当てるかっこいい感想にはなっておりません。

この感想は、公開後に出てくる解説記事とか宮崎駿研究者のガチ考察を読んで自分の印象が汚染される前に書いておかねば……という予感があって、急いで書いたものです。

実際、最近の僕はガチの人たちの渾身の考察記事に触れてしまって思想汚染が働いたため、もう「君たちはどう生きるか」を他人の思考なしに自分の感性だけで見ることはできなくなったでしょう。そういうことってあるよね。

 

ちょっと長くなりましたが本当に以下から感想始まります。もちろんネタバレがあるので、注意してください。

 

ネタバレあるよ〜〜〜〜

 

 

 

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君たちはどう生きるか」を見て困った。どう評価していいのか分からない。

評価……? 評価する前提で見るからよくないのだろうか? もっと純粋に、思ったままに書けばいいのかもしれない。

でもこのインターネット社会で評価を大いに含んだ感想を書くことは、一つの参政権のようになっているような気がする。やらなきゃ軽んじられる……みたいな。

 

思ったままを書くならば、映像の迫力や質感というものはとても見応えがあった。

でも、話のプロットとか大丈夫かこれ? 突飛すぎないか? という感じで、宮崎駿じゃなかったらボロクソに言われているんじゃないかと思わざるを得ない。展開が間延びしているのだ。

 

ストーリーは最終的には落ちるような感じがある、しかし多少無理やり持っていった感も否めない。色々と謎が残るのだ(おばあちゃん達の人形とか、お母さんがすんなり現実に戻ったりとか……本当のお母さんの願いが通じた結果?)。

 

小説の「君たちはどう生きるか」が劇中に登場する。

僕は、原作小説については読んでおいた方がいいと思った。読んでおくと真人(まひと)の行動原理が分かる気がするし、作品全体で言いたいことを10%増しで理解できるような気がする。

だが、理解できるとしても10%程度なので、やっぱり別に読まなくてもいいかもしれない(どっちだよ)。

 

そもそも作品のテーマという話(宮崎駿の言いたいことという話)になってくると、もう僕らのような一般の人達には出る幕は無く、重度のオタクやプロの評論家の仕事になってくるので、そういう意味でも、わざわざ原作を読んでその深い領域に踏み込んでいかなくてもいい気がする。

だが、原作を読まずに真人の行動原理が理解できるものなのだろうか?

真人が自分で頭を傷付けて、それを義理の母親が責任に感じ、塔に入っていく。真人は小説を読むまでその罪を自分の中で正当化しているので、義理の母には冷たい。だが、実の母の残した「君たちはどう生きるか」で自分の過ちを見つめ直して、義理の母親を助けに行く……。

そういう行動原理があるという風に僕は考えたのだが、これは小説の内容を知らないと多分たどり着けない。

 

おそらく小説の内容を知らない人達は、実の母親の愛情に触れたことで、真人が本来の優しさを発揮して助けに行ったという文脈で受け取るのではないか?

もちろん真人は元々優しいはずなので、その文脈でも問題はないのだが、ところどころで言動がよく分からないことになるような気がする。

「これが僕の悪意です」と言って頭の傷を示すくだりは、自分の罪を認知していることを示しているはずなのに、小説の内容を知らないとよく分からないのではないだろうか? 火に染まる世界に戻る決断も、小説の中で語られる、人の歴史の壮大さや素晴らしさ、友情の大切さが無ければ、なんでわざわざ現代に戻ろうとしているのか理解できなくなってしまうような気がする。

だから理解の助けのために、やっぱり読んでおいた方がいいのかもしれない?

 

しかし、映画のストーリー自体は本当に原作と関係ないので、ストーリーだけを追っていくなら原作不要なのである。そのことが、言ってしまえばマジでタチが悪い。

 

などと、つらつらと書いているが、上に述べたことが全然間違っているという可能性も全然ある。

上の文章を読んで「あなたはまだ巨匠の作品に対する知識と感性が足りていませんねぇ」などと言われてしまったりするかもしれない。

そういうマウント合戦への殴り込みはしたくない。だからここに書いている。

 

何度か見ると、この作品は愛着が湧くのかもしれない。時系列で整理しながら見ていくと結構面白いかもしれない。ジャンルがSFファンタジーだからだ。

風立ちぬと、ポニョと、千と千尋を足して割らなかった。みたいな作品だと思う。色々と説明不足だし、どこでも話がフワフワしている。

一体どこを楽しんだらいいのかよく分からないから「やっぱり宮崎駿の世界観はすげぇや!」みたいな感想が出てきてしまいがちになってしまうのだけれども、それはつまり宮崎駿じゃなかったらどう思うんだろうと思ってしまう。

 

結局パヤオは「君たちはどう生きるか」を読んでこの作品を作ったのか、何か別に言いたいことがあって小説を利用したのか、謎だ。もう何も考えたくない。あとはお前らだけで勝手にやってくれ。

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