「どうせお前はやらないけどね」と仕事でよく言われる。
これは結果だけ見れば全くその通りで、こんな風に言われた仕事をほとんどの場合で僕は完了できない。
それを見て「ほらねやっぱり思った通りだ」と言われ、思われ、負ける。
「やらない」という言葉にはサボるというニュアンスが含まれていることは明らかだろう。
この言葉を使う人は、「お前はやろうと思えばやれるのに、怠慢だからやらないのだ」というニュアンスで言ってくる。
しかし実際は違う。“やれない”のだ。“できない”のだ。流石にやろうと思えばやれるのにやらないほど子供ではない。できないのだ。
「できません」と意見しても「普通はできる」と言い返されて終わりだ。どうやら自分は普通じゃない出来損ないらしい。
「どうせお前はやらないけどね」と言われるだけで、できなかったことが自分のやる気の問題に変えられる。言われた時点で負けなのだ。
一方で、「どうせお前はやらないけどね」と言われて、“できた”時もある。
意外とやれた。思っていたよりも仕事ができた。やったぜ! ということもたまに自分にはあるのだ。
しかしこのパターンでも負けである。
「ほら、やればできるじゃん」か「俺がハッパかけたからな」が来る。
お前の仕事の力量を見極めているから言ったんだぞ感。もしくは、あえて強めに言うことで反骨心を持たせてやったんだぞ感。これを出され、負ける。
「どうせお前はやらないけどね」という人は、自分では何もしていないのに、この言葉を言うだけで最終的な成果に対して自分の手柄感を出してくるのである。
もし成果が無ければ、前述のように他人のせいにできるのだ。
要するに後だしジャンケンなのである。言えば勝ち。言われれば負け。
過去を思えば、父親もよく「どうせお前はやらないけどね」を使っていた。
こんな事があった。
父親はバイトをして金を自分で稼がない大学生と遊んでばかりの大学生はクズという考え方を持っていた。それは自分がバイトで稼いだ金で国立大に通う苦学生だった父親の経験のもとに生まれた思想だった。
そんな父親だから、バイトせず“のほほん”と大学一年生を過ごした僕に父親はいい顔をせず、ある日ついに怒り出し、今月中にバイトを始めろ! などと言ってきた。
いきなり今月中にバイトを見つけて、面接して、働き出すとなるとすぐに行動しないと間に合わないだろう。そんな事は父親だって百も承知のはずだ、要するに、僕に焦って欲しかったのだろう。
そして最後に捨てゼリフのように「どうせお前はやらないけどね」と言ってきた(出た〜〜!!)
実はこのとき僕は全く焦っていなかった。
何故なら、両親には言っていなかったが、友達に紹介されたファーストフード店のアルバイトの面接が既に決まっていた状態だったのである。してやったり!
というわけで僕はなんなくその月のうちにバイトを始めた。
それを知った父親は僕になんと言っただろうか。
もちろん「どうせお前はやらないけどね」の後出しジャンケンだった。
「俺が強く言ってやったからな」
「ファーストフードなんて誰でもできる」
「どうせお前は長続きしない」
はいはい分かった負けですね、はい。
もういいわ解散。かいさ〜ん。
人生において、僕はこの言葉の使い手に負け続けるのだろう。
そして今日も明日も無能を証明し続けるのだ。