長くなってしまったので、前編と後編に分けました。
熊本地震の後に自己嫌悪になってガルパンSSを読みまくるようになった続きからです。
久しぶりに大学へ行く
1日中ゴロゴロしながらガルパンSSを読みふける生活が2週間ほど過ぎ、地震の発生から約2ヶ月ほど経ったころだっただろうか(時期は正確に覚えていないから間違えているかも)。
世の中は地震からかなり回復し、社会活動もだんだんと再開して「ボランティアしないの?」と言ってきた母親も日中は仕事に行くようになった。
僕も大学から声がかかった。
大学の講義が始まるのはまだ先だったが、研究室に所属していた僕は研究室の片付けや研究室棟の被害状況を先生たちと一緒に見回るように言われたのだ。
同じ研究室にいた友人のAにも連絡が来ていたので、僕とAは大学に集合して、自分たちの研究室の片付けを始めた。
自分のやるべきことがあるというのは安心した。
何か役割を与えられることで、人間関係の中に自分の立ち位置が定まった感覚を覚えた。
人から求められることをやることは精神を健全に保つのだろう。震災直後にボランティアを精力的に行なっていた人たちは、もしかしたらそういう心の安定を求める気持ちもあって頑張っていたのかもしれないとこの時考えた。
彼らと僕が違うのは、彼らには主体性があり、僕はただ受け身になっているだけであるということだった。
僕は地震で壊れたパソコンを片付けながらボランティアの人たちと自分の人間性の違いの考察が捗ってしまった。
僕は、役割を与えられたことで満たされていく自尊心を感じた。
でも“自分”という人間の器が思ったよりも小さいようだと気付いて別の自尊心がまたガリガリ削られていくのを感じていた。
なにガルパン読んでんだよ
おおかた自分たちの研究室を片付けたあと、僕とAと、同じように大学に呼ばれていた学生たちは2,3人の先生たちと一緒に他の研究室や設備を見回っていくことになった。
正直この見回りは先生たちだけで充分な作業であり、なぜ僕やAやその他の学生が一緒に見回ったのか今でも分からない。
ただ大学の中の状況を見ることができたのは少し安心した。
家にいる時は、大学の建物や設備はぶっ壊れていると思っていたが、大学は(多少のダメージはあったものの)無事だった。
先生たちと歩いていると、廊下にちょこんとバケツが置いてあり、よく見るとそれは自分の研究室の備品だった。
「これ、ウチのバケツですね、元の場所に戻していいですか?」と聞くと
「あぁ、それは学生のボランティアが君んところの研究室から拝借したんだろうね、戻してくれるとありがたい」と言われた(地震で水道が止まったので、プールからバケツに水を汲んでトイレを流していた)。
ハッとした。
その瞬間僕は自分が何もせずただサボっていた事をありありと実感させられてしまったのだ。
家でダラダラしていた時の僕は、自分が何かしようとしても邪魔になるだけだし、何もしないことが1番世のためになると自分に言い訳していた。
だが違ったのだ。
このバケツ1個がそれを突きつけてきた。
というのも……このバケツは備品室の外に放置してあったもので、備品室の中には大量にバケツが用意してあるのだ。
そして僕は備品室の鍵の場所を知っていた。
備品室にあるのはバケツだけではなく防寒着やカイロの備蓄もあったので、鍵があれば避難所の役に立ったはずだ。
なんだ、普通にあるじゃないか、役に立つ事……。
なんで気が付かなかったんだろう? これじゃただのサボりじゃないか、ガルパンSSなんて読んでんじゃねぇよ。
先生によれば、学生たちは率先して避難所の運営をしていたらしい。
僕は同じ大学の学生だったが、何もしていなかったし、何もしたくなかったし、サボっていたのだ。
忘れないだろうと思う
バケツの一件があって、僕の自尊心はボディブローのようにジワジワとダメージを受け続けていた。
僕とAは研究室に戻って、些細な片付けをしていたが、僕はとうとう良心の呵責に耐えきれなくなりAに懺悔してみることにした。
「俺さぁ、地震の後さぁ、ボランティアとか何もしてないんだよね〜……。そんでさぁ、家でさぁ、SSっていうんだけど、アニメの2次創作の小説をず〜〜っと読んでたの。ヤバイでしょwww」
みたいな感じで、笑いながら言った。
ふざけている感じを消すことができなかった。
Aはジャンプは読むが、僕のようなアニメオタク趣味は無かったので、そもそもSSを知らないし、いきなり言われてもよく分からなかっただろうと思う。
Aは僕と違って車を持っているし、根性があって辛い作業もこなすタイプだし、なんとなくしっかりしている人間だ。
僕は「オタクかよ」とか「お前もちゃんと働けよ(笑)」みたいな感じの言葉が返ってくる事を期待していた。
何もしていない僕を言葉で軽く小突いて欲しかった。
でも、Aの言葉は予想と違っていた。
僕は多分、この時のAの言葉をずっと忘れないだろう
Aは言った。
「俺はおそ松さん見てた」
「え? おそ松さん? おそ松くんじゃなくて新しい方のやつ?? え、お前そういうの見るの??」
「ん〜普段なら見ないけど、暇過ぎて見ちゃった。お前見た?」
「いや……2,3話しか見てないけど……」
「お前、おそ松さん面白いよ〜!!」
衝撃だった。
Aはおそ松さんを見ていた。
ボランティアとかした? と聞くと「そんなのするわけないじゃん!!」と答えた。
Aはおそ松さんを見ていた。
僕が何もせずダラダラとガルパンSSを読んでいる間、Aも何もせずおそ松さんを見ていたのだ。
なんでおそ松さん? と思った。
俺がオタクじゃないお前に色々オススメのアニメとか紹介したけど「そういうのは見ないから」って拒否ってたよね? なんでおそ松さん? と思った。
同時に、心がどんどんどんどん軽くなっていった。
どんどんどんどん軽くなる! なんだこの感覚は!? さっきまでの罪悪感がウソのように消えていく!
そうか! 自分と同じ奴がいたからだ! だってコイツも何もしてないもん! コイツも備品室の鍵開けてないし、ボランティアしてないし、ダラダラおそ松さん見てたんだもんな!(俺はおそ松さんじゃなくてガルパンだけどな!)
僕はこのとき初めて、自分が今まで孤独を感じて苦しんでいたことに気付いた。
そして「俺はおそ松さん見てた」という言葉で孤独から解放されてしまったのだ。
僕は孤独だったのだ。罪悪感で自分を責めて苦しんでいたのではなく、孤独で仲間が欲しくて苦しんでいた。
振り返ってみると、自分から人を避けて孤独を選んだクセに孤独に苦しんでいた。
そしてその事に気付かなかった。
多分「あなたは独りじゃないよ」と言われても救われなかったと思う。何故なら自分が苦しんでいる理由が孤独であるということを分かっていなかったから。
そう考えると「俺はおそ松さん見てた」は僕自身でさえも気付いていない救済方法を1発で当てに来たのだ。すごい言葉だ。
僕は笑った。めちゃくちゃ笑った。すごく面白かった。
誰が何に救われるのか
このことで、僕は自分が結構もろいらしいということが分かった。
僕は割と簡単にメンタルが崩れるらしい。
そしてもう一つ、人間って何に救われるのか分からないという事が分かった。
ボランティアや募金は確かに多くの人を救っただろう、SNSの正論も社会的意義がある人たちの行動の支えになったのかもしれない。
でも僕を救ってはくれなかった、むしろダメ人間の僕は苦しめられてしまった(何度も言うがそういう人たちを否定するということではない)。
僕を救ったのは、同じような境遇にいたダメ人間だったし、素晴らしい言葉でもなかった。
あの時「俺はおそ松さん見てた」という言葉が無ければ、自分はどうなっていたのだろう? と今でも考える。
最近、また地震があったし、色々な災害があった。そして今後も災害は起こるだろう。
災害が起こったときにボランティアをするのはとても素晴らしいことだ。
ボランティアの方々がいなければ多くの人が救われない、本当にそう思う。
一方で、あの時の僕のように何もしない人も出てくるだろう。
そういうの人は社会的にはダメな人かもしれない。でも僕は知っているので言いたい、あなたは何もしていないかもしれないが、誰も救えない訳ではないという事を言いたい。
誰が何に救われるのかなんて分からないのだ。
あの時、おそ松さんを見ているだけで何もしていなかったAがいただけで、僕が孤独から救われたように、あなたがそこにいるだけで救われる人がいる可能性はゼロではないのだ。
そういう事を僕は言いたかったからこれを書いた。
最後にもう一回ハッキリ言いたい。
僕は熊本地震のときボランティアをせずガルパンSSを読みまくっていました。
※特定を回避したかったのでかなりボカした内容にしましたが実際の出来事には変わりないです。
※時期については、正直正確に覚えていないのと、内容をボカしたせいでかなり矛盾があるかも……大目に見て下さい。