魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

美術の先生にカボチャを褒められた話

 

就活の履歴書に「趣味:絵ハガキ」と嘘を書き、デフォルメされた右を向いている女の子しか描けず、ヘタクソな絵をツイッターにアップしてお情けで2いいねくらいを貰うレベルの僕だが、これでも中学生の時に美術の先生から褒められたことがある。

 

 

 

 

今日はその話をする。

 

 

野菜を模写する授業

ある日の美術の授業は家から野菜や果物を一つ持ってきてそれを描くというものだった。僕が野菜を用意してくれと祖母に頼むと、祖母は庭の畑で採れたらしいデカいカボチャを渡してきた。僕は正直イヤだった、クラスのみんなはプチトマトやバナナを持ってくると思ったからだ。

 

「学校に持っていくんだからもうちょっと小さいやつがいい……」

「あんた贅沢いいなさんな!『それ』しかなかったい!」

 

カボチャしかないなんて絶対ウソだと思ったが、僕は昔から人に抵抗できない気の弱い性質(たち)だったのでそれ以上は逆らわず、体育も無いのに学校指定の体操服入れへカボチャを押し込み、学校へ行った。

 

カボチャを。

クラスのみんなは予想通りプチトマト、キュウリ、バナナ、ミカンなどを持ってきていた。野菜や果物を忘れてきた人たちは他人のものを見せてもらえることになったのだが、だれも僕のカボチャを見には来なかった。

 

僕のカボチャは全体的にデコボコしており、よくよく見ると表皮にはもっと細かいデコボコの瘤があったのだが、細かいところまで精密さを要求するとたいてい上手くいかないことを経験的に知っていた僕は、アニメでよく見るようなツルツルのカボチャの線画を描き終えた。

 

 線画を終えて塗りの時間に入ると、美術の先生に気合が入る。この先生はかなり高齢のおじいちゃん先生で、少し怖かった。

おじいちゃん先生は美術室を巡回してダメ出しを入れていく。雑な線画とベタ塗をしている絵具について何か言われるんじゃないかとヒヤヒヤしていると、ついに僕のところまで来た。

 

 

「キミ! 素晴らしいね!」

「えっ?」

 

「素晴らしいカボチャを持ってきたね!」

「今日1番良いモチーフだよ! 色も形もいい、しかも頑丈で型崩れしないから、これなら数ヵ月は保つ、良いモチーフを選んだねぇ!」

 

なんと僕は褒められたのだ。カボチャを。僕自身の絵が褒められたのではない、カボチャを褒められたのだ。先生は僕の絵については一言も触れなかった。

 

しかしこのとき僕は自分が褒められたと完全に勘違いし、調子に乗り、奇行に走り出す……。

 

満たされた承認欲求は狂いだす。

いままで親や先生達に怒られたことは数あれど、褒められたことは両手で数えられるほどしかない僕は、いきなりの誉め言葉に混乱した。

 

(この僕が褒められた…? この僕が、この教室で1番だって……?)

(僕のカボチャが1番すごいんだ…! ○○さんのバナナじゃダメなんだ! ××君は絵がうまいけれど1番じゃない! 1番はこの僕なんだ!! 俺がNO. 1だ!!)

 

湧き上がってきた優越感と承認欲求をうまく処理することができなかった14の僕は、事実を自分の都合のいいように曲解し、カボチャ(もしくはカボチャを用意した祖母)が手に入れるべき栄光を、完全に自分のものであると考えた。

その後の美術の時間はとにかく楽しく、自分が最高であるという幻想にどっぷり浸かっていた……。

 

美術が終わったあとも僕の妄想は止まらず、「俺は絵が上手い、なかでもカボチャの絵が上手い」と本気で思うようになっていた。

さらに、カボチャと褒められた事実を関連させ「このカボチャを持っていれば褒められる」とまで考えるようになり、常に体操服入れにそのカボチャを入れるようになっていた。なにか上手くいかないことがあると、自分の部屋でそのカボチャを手に取り眺めながら「俺はこのカボチャがあれば上手くいく。強い自分になれる。先生は数ヵ月は保つと言っていた。まだ大丈夫だ……」と念じて自分を慰めた。

 

いま考えると完全に狂気の沙汰である。

 

しかし、当時の僕はそれほどまでに自分に自信がなく、他人からの評価を欲し、承認欲求に飢えていたのかもしれない。”先生”という中学生にとっては絶対的な評価基準から突如として褒められたことで、僕の欲求は暴走し、カボチャは半年間僕に付き合った。

 

最終的に、体操服入れの中にカビの生えたカボチャが入っているのを祖母が発見し、僕を叱ったことでこの騒動は収束した。

 

カボチャの呪いはまだ解けない。

このように当時を冷静に見返して、笑い話として紹介できるようになった今でも、もしかしたらまだ僕はあのカボチャに囚われているのでは? と思うことがたまにある。

あの時以来、僕は人に自分の絵を見せることが止められなくなった。ツイッターに下手くそな絵を上げ続けている理由はそれだ。

いま以上に絵が上手くなろうとも考えていない。他人に下手くそと罵られてもあまり気にならない。それは心のどこかで「俺は絵が上手い、なかでもカボチャの絵が上手い」とまだ思い続けているからではないだろうか。

 

そういえば、その時以来カボチャの絵を描いたことは一度もなく、描こうとも思わない。たぶん自分の絵の下手さに本当の意味で気付いてしまうからだろう。潜在意識がそれを拒否しているのだ、まだ自分の妄想に浸っていたいのだ。

 

僕の潜在意識はまだ美術室でカボチャを描いている。