魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

雑記 ここ2、3週間の所感

僕にとって3月というのは相性の悪い月らしく、今月に入ってから心の体調があまりよろしくない。

仕事面においては1年間ずっと無気力であったのだが、今月に入って仕事だけじゃなくて生活の方でもどんどんテンションが上がらなくなってきている。

 

ちなみに去年の3月はこんなことになっていた。

shirako-dayo.hatenablog.com

 

今年はなんとか会社には行けているが、結構ギリギリな状態のような気がする。

とりあえず今回は雑観として、いまの所感をまとめておくことにする。

今回はまともな文章にはならないだろう。(いつもまともになっている自信があるわけではないけれど……)

 

元気がない

今月はずっと「元気がない」「ちゃんとして」「元気よく!」と会社で言われまくっている。

僕個人としてはいつも通りのテンションで働いているのだが、最近声がうまく出ないので「なんて言ってるか分かんないんだよ!」って言われたり、「ちゃんと寝てから会社来てよ」と言われる。

そんなこと言われても元気がないものはないし、でも電話するときや後輩に質問された時は、頑張って絞り出して可能な限り愛想よくすることに努めているし、許して欲しい。

そう言ったら、それは君の体調管理の問題だから自分でなんとかしなさいみたいな展開になってしまい、結局「早く寝ないから元気がないのだ」ということになってしまった。

 

睡眠時間

今月は平均6〜7時間ほど寝ている。多くはないが少なくはないと思う。APEXやTwitterをするのを止めて、本を読むようにしたらいい感じに眠くなるようになったので、この方法で深夜0時とか1時に寝ることができるようになった。

ただ、これは今月に入ってからの話で、その前は5〜6時間ほどの睡眠時間だったと思う。これは短い。毎日がつまらないと早く寝るのが嫌になるのってあるよね? それで深夜2〜3時くらいに寝ていたらこれくらいの睡眠時間になっていた。

ただ、睡眠時間が短くなり過ぎていろんな弊害が出た。最終的に寝ながらオシッコをするようになってしまったので、流石にこれはヤバいと思って夜は読書をすることにしたのだ。

ちなみに大人のオネショは夜尿症と呼ぶらしい。大人になるとなんでも名前が変わる(ニキビを吹き出物と呼んだりとか)ので、大人はずるいと思う。

 

APEX(ゲーム)

ゲームは現実逃避にちょうど良かった。ただ、ゲームをしている時は現実から離れることができるが、ゲームを辞めてしまうと現実に戻ってしまうのが難点だと思う。辛いことを思い出さないためにはずっとゲームをやり続けなければならず、そのためにAPEXのようなバトロワゲーは非常に重宝した。

ただ、最近は少し自分の中でAPEX離れが進んできてしまった。多分お気に入りのVtuberが最近あんまりAPEXをやらなくなっちゃったからだと思う。というかAPEXって炎上多くね?

あとやっぱり僕がFPS下手なので、やってて辛くなってしまう。悲しいかな、僕のAPEXはシルバーランクで終わりそうである。

そんな感じで、少し前はガッツリ休日はAPEXをやっていたのだが、最近は暇な時間にちょっとだけする程度になってしまった。

あとAPEXの代わりにテトリスや壺おじのゴルフ版のゲームをやったりしている。手軽さでいえばこういうのの方が良い現実逃避になるかもしれない。

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Twitter

平日にツイートするのが億劫になってきた。どうせ仕事の愚痴しかツイートすることがないし、僕がわざわざネット上にヘイトを増やしていっても世界がいい方向に向かうわけではないし、なんかどうでも良くなってきた。

就職して1年目くらいまではツイートの内容が頭にどんどん浮かんできて、逆にツイートしておかないと頭の中で言葉が暴走し始める感覚になっていたのが、最近はカラッポだ。ツイートすることなくね?

 

エヴァ

ここのところTwitterがちょっと億劫になってきた理由の一つに、エヴァのネタバレを回避したいという気持ちが少なからずあることは明白だ。

昨日だっけ? ネタバレ解禁みたいになっちゃったのでいよいよ見に行かないとマズイと思っているのだが、そもそも僕ってそんなにエヴァ好きだったっけ? エヴァのネタバレを回避するためにエヴァ見にいくだけになってないか? このままTwitterから離れていればネタバレ回避できるし、ネット配信まで待てるんじゃね? みたいなことを考えてしまってまだ見てない。

 

多分だけど、去年の5月から髪を切ってない。自分のツイートを遡ったら自分で髪を切っている写真が5月に出てきたので多分5月だと思う。

となると、10ヶ月くらい髪を切っていないことになり、浮浪者みたいになっている。

上司からは「その頭でよく社会人として生きていられるな」と言われてしまった(これは遠回しに「死ね」と言われているのだろうか?)。まぁ、そんな頭で平気で出社したり他社も参加するWEB会議で自分を写したりしているので、上司様のキレ具合にも納得できる部分はある。

いや切れよ。と思う。自分でも思う。でも切れない。なんか切れない。なんで切れないのかわからないんだけどとにかく面倒臭い。自分で髪を切ったり、床屋に行くためのMPが足りない。

あと10ヶ月くらい切っていない髪の毛は不便なところもあるけれど、便利なところもあって、会社の人と目が合わないところが非常に良いのだ。そんな鷺沢文香みたいな理由で、結構この頭も気に入っていたりする。

 

社会人失格

「よく社会人として生きていられるな」と言われるようになってしまうほど社会人として失格基準まで落ちてきたなと思う。

まず前述したように髪を10ヶ月切っていないし、その頭で風呂に入らず出社したりする(なので、頭がギットギトになっている)。風呂に入らない理由は、風呂に入るMPが足りないからだ。

そしてスーツがボロボロになって、なんか中に入っているフェルトみたいなものがピロ〜ンって出てきちゃった。いつこうなったのか覚えていない。

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覚えていないといえば、仕事中に短期記憶というか、コンピューターでいうメモリの量がほとんど無くて要するに物忘れがひどい。いまやっている作業を忘れる。資料を作りながら「あれ? いま何の資料作ってるんだったっけ?」みたいなことになる。

よく「忘れるならメモをとれ」と言われるが、メモを取ったとしても「メモを取った」ということを忘れるし、メモをとりながら「あれ? いま何をメモするんだったっけ?」となるのでちょっと無駄かもしれない。

 

仕事

辞めたい。1ヶ月くらい旅行したい。

 

無能

自分が無能であることをアピールしても誰も認めてくれない。上司たちは、普段の業務では僕の仕事のできなさを散々指摘するのに、面談の場になると「いまは辛い時期なだけだよ」とか「仕事に対して一定の評価はしてるし、君がいないと困るよ」とかちょっと優しい言葉を投げてくる。

でもよく考えると、辛い時期がもう1年も続いてるし、一定の評価をしていると言いながら普段の僕への言葉はどんどん強くなるし、代わりが居ないなんてことは無いはずである。

「君がいないと困る」って、正しくは「君が犠牲になってくれないと他の生贄を選ばないといけないから困る」って意味ですよね?

 

病院

「元気を出せ」「ちゃんとしろ」と言われるけれど、自分ではどうすればいいか全く分からないので、これは病院とかで“元気になる薬”を貰うしかないと思っている。

先週、いよいよ心療内科に電話しようとした。そしたら運悪く昼休みが無かった。病院は僕の仕事が終わるまで空いていないし、土曜日に電話するしかなかった。

そして昨日、電話した。だが祝日なので休みだった。

 

明日

炎上しているプロジェクトがある。どうしていいか分からない。なんで毎日明日が来るんだろう?

 

ブログ書いてる。深夜0時を過ぎてしまったので寝なきゃ。

まちカドまぞくとコラボしている総合病院の夢の話

こんばんは、最近iPad買ったらプログラミング熱が復活したので買って良かったなぁと思っている魚の精巣です。

でも仕事への姿勢は相変わらず後ろ向きです、タハハ。

 

今日も夢の話です。昔話と仕事のグチ以外は夢の話しか無い。助けてくれ。

 

〜〜〜〜〜

まちカドまぞくと限定コラボしている総合病院に来た僕は受付に並ぶ長蛇のオタク列の一部になっていた。

列は二つに分けられ、僕の並ぶ列は降順、もう一つの列は昇順とのことだった。

 

コラボの内容はまちカドまぞくのパネルや原画と総合病院に入院している患者を同時に見学できるというものだった。

 

カーテンで仕切られた順序の先にオタクたちがどんどん吸い込まれていく、そろそろ自分の番が回ってくるのでドキドキした。

「つぎの方、どうぞ〜」

というスタッフの声に導かれてカーテンの奥に突入すると、シャミ子や桃といったキャラクターのでかでかとしたパネルが飾られた隣に病院のベッドがあり、そこでヨボヨボのおじいさんが寝息をたてていた。

 

順路に従って進んでいくと、病院の部屋の壁にはキャラクターたちのイラストやアニメのシーンの切り抜きが飾ってあり、その下に先程のおじいさんと同じようなお年寄りが眠っているベッドかいくつも並んでいた。たまに酸素マスクやチューブで繋がれた患者さんもいた。

 

順路に導かれるまま次の区画に進むと、同じようにまちカドまぞくのキャラクターたちのイラストと患者さんたちが出迎えてくれた。しかしこの区画の患者さんはそこまでお年を召しておらず、起きている人たちも結構いた。

 

なるほど、“降順”とはつまりこういうことか、おそらくどんどん若くなっていくのだろう。

 

正直、あまりゆっくりと鑑賞できる企画展ではなかった。来場者が多いのでもたもたしていたら渋滞になってしまう。僕はあまり面白くない動物園を進むくらいのスピードで展示を消化していった。

 

やがて新生児のベッドが並ぶ区画に着いた。おそらく最後の展示だろう。

生まれたての赤ちゃんたちの大合唱が耳をつんざく、最初の部屋とはえらい違いだと思った。

 

出口間近のところに人工保育器のようなものが置いてあり、その中にはピンク色の小さいソーセージのようなものがピョコンピョコンと元気に跳ねていた。

感覚的にそれが胎児であることを理解した僕は「患者というより人生の展示みたいだったな」と思った。

 

出口から外に出ると、“昇順”に並んでいるオタクたちがいて、僕は「昇順から入ったらまた別の見え方があるのだろうな」と思った。まちカドまぞくのことはあまり印象に残らなかった。

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

熊本地震とガルパンSS 後編

 長くなってしまったので、前編と後編に分けました。

 

熊本地震の後に自己嫌悪になってガルパンSSを読みまくるようになった続きからです。

 

久しぶりに大学へ行く

1日中ゴロゴロしながらガルパンSSを読みふける生活が2週間ほど過ぎ、地震の発生から約2ヶ月ほど経ったころだっただろうか(時期は正確に覚えていないから間違えているかも)。

 

世の中は地震からかなり回復し、社会活動もだんだんと再開して「ボランティアしないの?」と言ってきた母親も日中は仕事に行くようになった。

 

僕も大学から声がかかった。

大学の講義が始まるのはまだ先だったが、研究室に所属していた僕は研究室の片付けや研究室棟の被害状況を先生たちと一緒に見回るように言われたのだ。

 

同じ研究室にいた友人のAにも連絡が来ていたので、僕とAは大学に集合して、自分たちの研究室の片付けを始めた。

 

自分のやるべきことがあるというのは安心した。

 

何か役割を与えられることで、人間関係の中に自分の立ち位置が定まった感覚を覚えた。

人から求められることをやることは精神を健全に保つのだろう。震災直後にボランティアを精力的に行なっていた人たちは、もしかしたらそういう心の安定を求める気持ちもあって頑張っていたのかもしれないとこの時考えた。

 

彼らと僕が違うのは、彼らには主体性があり、僕はただ受け身になっているだけであるということだった。

 

僕は地震で壊れたパソコンを片付けながらボランティアの人たちと自分の人間性の違いの考察が捗ってしまった。

 

僕は、役割を与えられたことで満たされていく自尊心を感じた。

でも“自分”という人間の器が思ったよりも小さいようだと気付いて別の自尊心がまたガリガリ削られていくのを感じていた。

 

なにガルパン読んでんだよ

おおかた自分たちの研究室を片付けたあと、僕とAと、同じように大学に呼ばれていた学生たちは2,3人の先生たちと一緒に他の研究室や設備を見回っていくことになった。

 

正直この見回りは先生たちだけで充分な作業であり、なぜ僕やAやその他の学生が一緒に見回ったのか今でも分からない。

 

ただ大学の中の状況を見ることができたのは少し安心した。

家にいる時は、大学の建物や設備はぶっ壊れていると思っていたが、大学は(多少のダメージはあったものの)無事だった。

 

先生たちと歩いていると、廊下にちょこんとバケツが置いてあり、よく見るとそれは自分の研究室の備品だった。

 

「これ、ウチのバケツですね、元の場所に戻していいですか?」と聞くと

 

「あぁ、それは学生のボランティアが君んところの研究室から拝借したんだろうね、戻してくれるとありがたい」と言われた(地震で水道が止まったので、プールからバケツに水を汲んでトイレを流していた)。

 

ハッとした。

その瞬間僕は自分が何もせずただサボっていた事をありありと実感させられてしまったのだ。

 

家でダラダラしていた時の僕は、自分が何かしようとしても邪魔になるだけだし、何もしないことが1番世のためになると自分に言い訳していた。

 

だが違ったのだ。

このバケツ1個がそれを突きつけてきた。

 

というのも……このバケツは備品室の外に放置してあったもので、備品室の中には大量にバケツが用意してあるのだ。

そして僕は備品室の鍵の場所を知っていた。

 

備品室にあるのはバケツだけではなく防寒着やカイロの備蓄もあったので、鍵があれば避難所の役に立ったはずだ。

 

なんだ、普通にあるじゃないか、役に立つ事……。

 

なんで気が付かなかったんだろう? これじゃただのサボりじゃないか、ガルパンSSなんて読んでんじゃねぇよ。

 

先生によれば、学生たちは率先して避難所の運営をしていたらしい。

 

僕は同じ大学の学生だったが、何もしていなかったし、何もしたくなかったし、サボっていたのだ。

 

忘れないだろうと思う

バケツの一件があって、僕の自尊心はボディブローのようにジワジワとダメージを受け続けていた。

 

僕とAは研究室に戻って、些細な片付けをしていたが、僕はとうとう良心の呵責に耐えきれなくなりAに懺悔してみることにした。

 

「俺さぁ、地震の後さぁ、ボランティアとか何もしてないんだよね〜……。そんでさぁ、家でさぁ、SSっていうんだけど、アニメの2次創作の小説をず〜〜っと読んでたの。ヤバイでしょwww」

みたいな感じで、笑いながら言った。

ふざけている感じを消すことができなかった。

 

Aはジャンプは読むが、僕のようなアニメオタク趣味は無かったので、そもそもSSを知らないし、いきなり言われてもよく分からなかっただろうと思う。

 

Aは僕と違って車を持っているし、根性があって辛い作業もこなすタイプだし、なんとなくしっかりしている人間だ。

 

僕は「オタクかよ」とか「お前もちゃんと働けよ(笑)」みたいな感じの言葉が返ってくる事を期待していた。

何もしていない僕を言葉で軽く小突いて欲しかった。

 

でも、Aの言葉は予想と違っていた。

 

 

僕は多分、この時のAの言葉をずっと忘れないだろう

 

 

 

 

 

 

Aは言った。

「俺はおそ松さん見てた」

 

 

 

 

「え? おそ松さん? おそ松くんじゃなくて新しい方のやつ?? え、お前そういうの見るの??」

「ん〜普段なら見ないけど、暇過ぎて見ちゃった。お前見た?」

「いや……2,3話しか見てないけど……」

「お前、おそ松さん面白いよ〜!!

 

衝撃だった。

Aはおそ松さんを見ていた。

ボランティアとかした? と聞くと「そんなのするわけないじゃん!!」と答えた。

 

Aはおそ松さんを見ていた。

僕が何もせずダラダラとガルパンSSを読んでいる間、Aも何もせずおそ松さんを見ていたのだ。

 

なんでおそ松さん? と思った。

俺がオタクじゃないお前に色々オススメのアニメとか紹介したけど「そういうのは見ないから」って拒否ってたよね? なんでおそ松さん? と思った。

 

同時に、心がどんどんどんどん軽くなっていった。

 

どんどんどんどん軽くなる! なんだこの感覚は!? さっきまでの罪悪感がウソのように消えていく!

 

そうか! 自分と同じ奴がいたからだ! だってコイツも何もしてないもん! コイツも備品室の鍵開けてないし、ボランティアしてないし、ダラダラおそ松さん見てたんだもんな!(俺はおそ松さんじゃなくてガルパンだけどな!)

 

僕はこのとき初めて、自分が今まで孤独を感じて苦しんでいたことに気付いた。 

そして「俺はおそ松さん見てた」という言葉で孤独から解放されてしまったのだ。

 

僕は孤独だったのだ。罪悪感で自分を責めて苦しんでいたのではなく、孤独で仲間が欲しくて苦しんでいた。

 

振り返ってみると、自分から人を避けて孤独を選んだクセに孤独に苦しんでいた。

そしてその事に気付かなかった。

 

多分「あなたは独りじゃないよ」と言われても救われなかったと思う。何故なら自分が苦しんでいる理由が孤独であるということを分かっていなかったから。

 

そう考えると「俺はおそ松さん見てた」は僕自身でさえも気付いていない救済方法を1発で当てに来たのだ。すごい言葉だ。

 

僕は笑った。めちゃくちゃ笑った。すごく面白かった。

 

誰が何に救われるのか

このことで、僕は自分が結構もろいらしいということが分かった。

僕は割と簡単にメンタルが崩れるらしい。

 

そしてもう一つ、人間って何に救われるのか分からないという事が分かった。

 

ボランティアや募金は確かに多くの人を救っただろう、SNSの正論も社会的意義がある人たちの行動の支えになったのかもしれない。

 

でも僕を救ってはくれなかった、むしろダメ人間の僕は苦しめられてしまった(何度も言うがそういう人たちを否定するということではない)。

 

僕を救ったのは、同じような境遇にいたダメ人間だったし、素晴らしい言葉でもなかった。

あの時「俺はおそ松さん見てた」という言葉が無ければ、自分はどうなっていたのだろう? と今でも考える。

 

最近、また地震があったし、色々な災害があった。そして今後も災害は起こるだろう。

 

災害が起こったときにボランティアをするのはとても素晴らしいことだ。

ボランティアの方々がいなければ多くの人が救われない、本当にそう思う。

 

一方で、あの時の僕のように何もしない人も出てくるだろう。

 

そういうの人は社会的にはダメな人かもしれない。でも僕は知っているので言いたい、あなたは何もしていないかもしれないが、誰も救えない訳ではないという事を言いたい。

 

誰が何に救われるのかなんて分からないのだ。

あの時、おそ松さんを見ているだけで何もしていなかったAがいただけで、僕が孤独から救われたように、あなたがそこにいるだけで救われる人がいる可能性はゼロではないのだ。

 

そういう事を僕は言いたかったからこれを書いた。

 

最後にもう一回ハッキリ言いたい。

 

僕は熊本地震のときボランティアをせずガルパンSSを読みまくっていました。

 

 

※特定を回避したかったのでかなりボカした内容にしましたが実際の出来事には変わりないです。

※時期については、正直正確に覚えていないのと、内容をボカしたせいでかなり矛盾があるかも……大目に見て下さい。

熊本地震とガルパンSS 前編

2016年4月14日に前震、4月16日の未明に本震が発生した熊本地震から約5年。

 

当時、熊本で学生として家族と共に暮らしていた僕は、おそらく人生で一生忘れないであろう出来事、光景、言葉をいくつか体験した。

 

今日はそのひとつについて、拙いながらも文章にしていきたい。というのも最近また地震があって、色々思い出すことがあったからである。

こういう災害があったときは嫌でも暗い気持ちになってしまい、自分のやるべきことや、やってはいけない事に悩んだりする。僕はそういう時にあの日々を思い出すのだ。

あぁそういえばあの時も何もしなかったなって思い出す。今回はそのことについての駄文である。

 

2回目の地震発生〜半月くらいまで 

4月16日の本震の時、僕ら家族は逃げるように一番近くの小学校に避難し、そのまま一夜を過ごした。

前震の時は余裕ぶっこいていた両親はこの本震のときは冷静さを失っており、大声を出したりネット上のデマに踊らされたりしていたのだが、僕の方はあまり事態を深刻に捉えることはしておらず、LINEで友人達と連絡を取ったり、ネットで情報収集したりしていた。

 

避難所でもまぁ色々なことがあったのだが、今回は割愛。

(避難所で替え歌を作ってツイートしたら知り合いからキレられる、深夜に年寄り同士がケンカし始める、余震が多過ぎて緊急地震速報早切り選手権が起きる、被災者とボランティアの境目が無くなる……等々)

 

その後僕ら家族は最初の数日を避難所で過ごし、その後、昼は避難所、夜は自宅で過ごす生活に切り替えた。

そして半月ほどでインフラがある程度回復した後は祖父母の家で一家全員まとまって過ごすことになった。

 

ある程度インフラが回復してくると、被災の雰囲気はかなり薄れてきていた。でも、まだ仕事や学校といった社会活動は再開されなかったので、半日常状態となっていた。

いまで言えば緊急事態宣言下のような雰囲気が近かったかもしれない。コロナと違うのは地域差(被害が大きかったところはインフラや食糧が充分ではない状況が続いていた)があったことと、人同士が密になって直接的に助け合っていたことだ。

 

半日常を取り戻した熊本では、連日テレビやネットでボランティアの活躍が報じられていた。

  • タレントの〇〇さんが炊き出しに訪れました。
  • くまモンが被災地を訪問しました。
  • 海外が募金を実施。
  • 県外からのボランティアが自費で被災地に物資を提供。
  • 全国からの救援物資が届いています。

 

TwitterFacebookを覗くと知り合いの近況が覗けた。その中にもボランティア活動をしている人が結構いたのは衝撃だった。

  • 故郷熊本のために東京で募金活動を実施しています!
  • みんなで車を出して物資供給の手伝いをしてきました!
  • 今日は炊き出しの手伝いをしてきました。

 

ボランティアとしてすぐに動くことができる人たちは本当に凄いと思った。

特にSNSで知り合いが自分よりも状況が悪い人のために精力的に動いていることが衝撃だった。今までボランティアはタレントや専門的に活動している人たちが行うものという認識があったが、同じく被災しているはずの地元の知り合いも自分にできることをやっていたのだ。

 

ゴロゴロするだけの怠け者だった

そして僕は……何もしていなかった。

 

言い訳としてはこうである。

まず、車を持っていない。車を持っていないと被災地に行けないのであまり役に立たないと思っていた。

 次にお金を持っていない。アルバイトすらしていない学生にお金の余裕など無い。よって募金的なこともできないし、しなくて良いと思っていた。

そして精神的に絶好調というわけではなかった。どういうわけか、この頃の僕は人と距離を取るようにしていた。祖父母の家にまとまって家族が暮らしていたので、リビングに2世代家族が揃うのだが、僕はその空間がなんとなく嫌だったので、一人だけ畳の仏間に寝転がって過ごした。

 

そういうわけで、車もお金も無いし、あまり人と関わりたくなかったので、僕はずっとゴロゴロと過ごしていた。自分と同じ境遇、あるいはもっと酷い目に遭っている人たちが一生懸命助け合っている中、畳にゴロゴロ転がってネットを眺めていた。

 

そんな感じで数日過ごす僕を見て、母親は「あんたはボランティアとかしないでいいの?」と言ってきた。

仕事が始まらない間、母親もテレビやネットでボランティアの活躍を見聞きしていたのだろう。正直、そういうことはまず自分がやってから言えよと思った。

 

畳にゴロゴロと転がってネットを見ていると、上述したように、色々な人が頑張っている姿を見ることになった。同時に、役に立たない人間に対する意見も増えてきていた。

 

  • 何も行動せずネット論客となるだけの若者に対する意見
  • 自粛ムードの呼びかけ、あるいは逆に自粛不要の呼びかけ
  • ボランティアをしない学生への批判
  • ボランティアを行っているが、うまく運用できていない学生への批判

 

特に気になったのは「いまボランティア活動等を積極的に行うことは人生にとって良い経験になる」とか「私だったら就活で災害ボランティアを頑張っている学生を積極的に採用したい」みたいな意見である。

そういう人たちのプロフィールを覗くと、東京都在住とか、企業名とか、年収とか、なんだか偉そうな肩書きとかが書いてあったことを強烈に覚えている。

 

ボランティアや募金活動に奮闘する人たちは本当にすごいと思う。これは本当に心の底からそう思う。だって自分はできなかったから。

でもその当時はその“すごい人達“のラインが引き上げられているような気がした。「若いんだからボランティアして当たり前」のような雰囲気がまとめられていっていた。

 

僕がネットで観測した限り、間接的な援助ではない直接的なボランティア活動(避難所の運営や炊き出しなど)を行なっていたのは、ほとんどが同じ県内の若者だったように思う。

余震が続く中で県外から来て泊まるところも限られている状況だったので、県内の労働力がほとんどになるのは当然っちゃ当然である。

 

同じ県内の人間であれば、程度の差こそあれみんな被災しているのである。そんな人たちに対してボランティアのラインを“当たり前“まで引き上げるのは正しいことだろうか? その上なんで就活の話まで出すの? そんな話は今誰も聞きたくねぇんだよ! と畳にゴロゴロしながら激しく思った。

 

そんな風にネットの情報を吸収していきながら、僕はどんどん卑屈になっていったように思う。自分は何も行動を起こせない役に立たない人間なのだ。自分の知り合いや大学の後輩がボランティアをしている間、畳でゴロゴロしているだけだ。母親にまで「あんたは何もしていない」と言われる始末だ。

 

この自己嫌悪を慰めるためには社会の役に立つことをすればいいんじゃないかと考えたこともあったが、この時の精神状態ではどうにもやる気が起きなかった。

自分みたいな車も運転できないしお金も無いし人とも関わりたくない人間がいまさら役に立とうとしたところで一体なんの役に立つのか。むしろ自分みたいな人間が社会に関わらないことが最も社会のリソースを無駄にしない最適解なのではないか? などと考えていた。そしてさらにそんなことしか考えない自分が嫌いになっていくのだ。

そんな風に僕は自分の自己嫌悪を抑えられずに苦しんでいた。しかし、はたから見る限り、僕は仏間の畳でゴロゴロしてスマホをいじる怠け者以外の何者でもなかった。

 

ガルパンを見ていないのにガルパンSSにはまる

ネット上で連日繰り広げられるボランティアや募金活動への賞賛と、何もしない人間に対する意見を受け止めることに耐えられなくなった僕は逃げた。

SNSやネットニュースを見ないようにしたのだ。情報を遮断することで自分を守ることにした。現実逃避である。

 

そうして僕はネット上のマンガを読んだり、神絵師のアカウントを巡回するようになった(やはり仏間の畳でゴロゴロするのは変わりなかった)。

そしてある日、ガルパンSSにたどり着いたのだ。

 

オタク諸氏ならご存知かと思うが、ガルパンとはガールズ&パンツァーというアニメの愛称である。そしてここでいうSS(ショートショート)は5chに投稿された主に会話形式で構成される短編小説のことで、つまりガルパンSSとはガールズ&パンツァーのキャラクターたちの会話を使って作られた2次創作である。(説明終わり)

 

これにハマった。

朝から晩までずっとガルパンSSのまとめサイトを巡回していた。

 

ちなみにガルパンは一話も見たことなかった(実は今も見たことない、ゴメンナサイ)。

 

ちなみにガルパンだけではなく、アイマスラブライブ!まどマギストライクウィッチーズのSSもこれでもか! というほど読んだが、ガルパンのSSはそれらと遜色ないくらいクオリティが高い作品が多く、しかもアニメを見ていないのに面白いものが多かったので一番ハマっていった(逆にアニメを見ていなかったことで新鮮に感じて良かったのだろう)。

 

しかも主人公の西住みほの出身地が熊本ということで、ちょうど熊本ガンバレ! みたいなキャンペーンもガルパンを通じて行われていた。

そのため僕は、なぜかガルパンSSを読むことでガルパン人気に貢献し、ひいては熊本の応援をしている気持ちになっていたのである。いま考えると意味不明だが、当時はそんなことにまで意味を見出そうとしていた。

 

そして僕は最終的にアニメを一話も見ていないのに全話だいたい把握しているし、映画の内容も全て知っているまでになった。

 

ちなみに好きなカップリングはまほちょびです。

 

好きな作品が生まれると、今度はその作品の別形式の2次創作を探してネットを巡回することができる。具体的にいうとガルパンSSにハマったあとはTwitterやpixivでガルパンのマンガやイラストを探す作業に没頭できるのだ。

この好循環によって、自己嫌悪に陥っていた状態から僕はあっという間にガルパン最高!」「ガルパンはいいぞとか一人で言っているただのガルパンおじさんになっていた。

そして相変わらず畳の上でゴロゴロしていた。

 

つづく

ちょうふくとじゅうふく

いきなりだが、重複は“ちょうふく”と読む。

 

しかし重複を“じゅうふく”と読む人もいるのではないだろうか。これは間違いではない。

重複を“じゅうふく”と読むのは慣用読みというやつで、本来の読み方ではないものの使用者が多いので定着した読み方だ。

 

本当は違うけど使う人が多いからその読み方もOKになるというのは言葉の柔軟性を表す面白い現象だと思う。

 

ちなみに僕も昔は“じゅうふく”と読んでいたが会社で矯正されて“ちょうふく”と読むようになった。今回はその話だ。

 

今回も暗い話だ。

 

 

 

だいたい1年前とかの話になると思う。

 2、3年ほど働いているといよいよ顧客とのやりとりをしなければならないようになってくる。やりとりは電話が多いけど、メールとかタスク管理ツールとかも使ってやりとりする。その時にビジネスメール調の文章を書く技術が求められる。

あとは会議の議事録だ。議事録も会議を行った取引先と共有するのでちゃんとした文章になっていなければいけない。会議の中であった口語的発言をビジネス的な文語的表現に直して文章を書く技術が求められる(最初からみんな文語的表現で発言すれば楽なのに……)。

 

さて僕はといえば、仮にもこんなブログを書いてインターネットに公開するような恥ずかしい行為をかれこれ3年も続けているにも関わらず、これらの技術についてはカス同然であった。

 

よって、メールや議事録については毎回上司に査収してもらい、その度に訂正を受け、ようやっとまともなビジネス的文章を作るのになかなかの時間を費やすのが常であった。

上司いわく、文章を書くにあたって、僕は普通の人よりも多くの時間を浪費しているとのことだった。

 

当時よく言われた……というか今もよく言われているのは「日本語苦手なの?」とか「プログラミングより先に日本語を勉強したほうがいいかもね」とかである。

 

いちおうちゃんと卒論も書いて大学を卒業して、毎日ツイッターでなんか書き、たまにブログまで書いてる僕にとってこういうことを言われるのは、昔はかなり悔しかったのだが、最近はなんかもう、どうでもよくなってきた。

あまり感情が動かない。あぁ僕は日本語できないんですよね〜知ってます知ってますって感じだ。

 

みなさん、みなさんが今読んでいる文章は日本語ができない人の文章です。

 

そんな僕だから、重複を“じゅうふく”と読んだ時も上司から指摘された。

「“じゅうふく”じゃなくて“ちょうふく”だからね」

 

実は重複を“じゅうふく”と読んでも別に良いということを知っていた僕は(えっ“じゅうふく”って読んでも良かったんじゃないっけ? でも確かに正しくは“ちょうふく”だった気がするな……)と思いつつ

「あっすみません……間違えました」

と謝った。

 

ビジネス文書には重複という言葉が多く出てくる(ひょっとしたら勘違いかもしれないが)。最初に重複の読み方を指摘された後も、僕の“じゅうふく”読みのクセはなかなか治らず、何回も重複を“じゅうふく”と読んでしまった。

そしてその度に

「“ちょうふく”ね」

「また“じゅうふく”って言ったよね? “ちょうふく”だからね」

「これ何回も言ったと思うけど、“ちょうふく”だからね」

「だから“ちょうふく”って前にも言ったよね? “じゅうふく”って読む人いないよ?」

と指摘された。

 

流石に“じゅうふく”なんて読み方をする人はいない、みたいなことを言われた時は少しムッとしたので

「いや……“じゅうふく”っていう読み方もあるんですよ……?」

とオドオドした感じで言い返した(僕は会社では基本的にオドオドしている)。

僕が言い返したものだから、軽くその場で「えっ? “じゅうふく”なんて読み方ないでしょ?」「いやいや……確かあるんです。あるっていうか、許されてるはずなんです」みたいなやりとりがあり、じゃあその場でネットで調べてみようということになった。

 

【ちょうふく じゅうふく】と調べると重複は“ちょうふく”と読むが、“じゅうふく”という慣用読みも存在する。と大量にヒットした。僕は自分の知識がちゃんと合っていたことにホッとした。

 

結果を見た上司は

「へぇ〜そうなんですね。いやぁ僕、頭悪いから知りませんでしたよ。いやぁ〜やっぱり〇〇君は僕と違って頭が良いから羨ましいな」

と、だいたいこんな感じで言ってきた。

 

上司は僕が何かの知識(具体的にはIT系以外の知識)を出すとこんな風に言ってくるクセがある。他方では日本語を勉強しろとか言ってくるのにこの言い方なので、煽り以外の何者でも無い。

 

煽られたものの、僕は、これで“じゅうふく”読みも許されるかな? と思って勝ち誇った気持ちだった。しかし上司は

「でも、このサイトにも書いてあるように、本来は“ちょうふく”読みが正しいんだよね? じゃあ“じゅうふく”と読むのはやめたほうがいいんじゃないかな? 正しい日本語を使ったほうがいいと思うんだけど、どう?」

と強めに言ってきた。

「えっでも、“じゅうふく”って読む人もいるみたいだし、言ってしまえば、あまり気にしなくても良いのでは……?」

「いやでも、正しい日本語は“ちょうふく”なんだよ? だったら“ちょうふく”の方がいいでしょ? 正しくないとわかっているのにあえて“じゅうふく”を使う理由は何?」

「理由と言われても……特に無いですけど……」

「じゃあ“ちょうふく”だよね」

「……はい」

こんな感じで、結局僕の“じゅうふく”読みは矯正されていくことになった。

 

それからもなかなか“じゅうふく”読みが抜けなかった僕は、何度か

「ここの部分がじゅ……“ちょうふく”しているみたいです」

みたいな言い直しをしていた。

 

一番困ったのは、電話でお客さんが“じゅうふく”読みをしてくる時だ。向こうが“じゅうふく”と言ってくる時はこちらが“ちょうふく”と言っていいのか、向こうに合わせて“じゅうふく”と言ったほうがいいのか分からなかった。

「こことここの表現が“じゅうふく”しているからなんとかならないですかね?」

「そうですね、こことここと、あとこの部分も……ち、“ちょうふく”しているみたいですね」

みたいな感じでおそるおそる喋っていた。

 

そんなこんなで、僕はなんとか重複を“ちょうふく”と読むようになった。

 

この矯正の反動として、僕は重複という言葉をあまり使わないことを心がけるようになった。

重複の代わりに「重なっている」「同じものがある」のような言葉をできる限り使う。

 

理由は2つある。

ひとつは、前述したように人によって読み方が違うからである。そして、人によっては正しい日本語を気にするからである。自分が正しい日本語を使っているということを気にすると言い換えてもいいかもしれない。

もうひとつは、「重複」という言葉を見ると、何度も何度も言われた「“じゅうふく”じゃなくて“ちょうふく”ね」という言葉や、検索結果の画面の前での無意味だったやりとりや、自分が日本語を勉強しないといけないことを思い出すからである。

 

そんな言葉の一つで、何をそんなに気に病んでいつまでも引きずっているんだコイツはと思う人もいることだろう。僕も自分で自分にそう思う。

自分にそう思うからこそ、心がけて逃げようとしている自分自身が気持ち悪くて二重で嫌になる。

 

ここであらためて言っておこう、重複は“ちょうふく”と読む。そうしないと怒られるから。

 

でも僕は、誰かが“じゅうふく”と読んでも気にしない。そういうことが大事なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、その上司は早急を“そうきゅう”と読む。

カレンダーの絵が下手だと仕事に支障が出るらしい

2020年は職場でイライラすることの多い1年だった。

3月に決定的な出来事があってから明らかにメンタルの調子悪くなっていった。そして徐々にイライラする機会が増えた。

 

イライラするのは些細なことだった。

  • 周りのキーボードのタイミング音が大きい
  • ホワイトボードのペンが薄い
  • マウスの調子が悪い
  • 電話が共用
  • 自分のスケジュールラインを表す色が赤系色(僕は勝手に自分のパーソナルカラーを青だと思っている)

とかだ。どれもちょっとの努力で改善されるのに実行できない。というか、些細なこと過ぎて最初は自分も「これにイライラしている」ということに気付かないのだ。

 

そしてつい最近、「あっアレにもイライラしてたのかも」と気付いた物がある。カレンダーだ。

 

卓上カレンダーの絵が下手クソだったのだ。それにイライラしていた。多分半年くらいイライラしていた。

うちの会社は年末になると色んなところからカレンダーを貰ってくる(挨拶周りでもらったりするのか?)ので、その中から選んだのだが、まさか自分が選んだカレンダーでイライラすることになるとは思わなかった。

 

選んだときは「味があっていい絵だな〜」とか思ってたのに、月替わりの下手クソな絵を毎日眺めているとウンザリするから不思議だ。

美人は3日で飽きるというが、美人でさえ3日で飽きるのにヘッタクソな絵を1ヶ月見続けなければいけないイライラに気付かないうちに耐えていたのだ。月が変わってもまた別のヘッタクソな絵が出てくるのだ。コノヤロウ。

 

2021年のカレンダーは、自分で買った。

コロナのせいで会社がカレンダーを貰ってこなかったからだ(そこにも何故かイライラした。どうしようもない)。

 

新しいカレンダーは絵が無い。

これを買ってビックリした。絵がないだけで書き込むスペースがこんなに広がるとは! めっちゃ使いやすいじゃないか! なんだこのカレンダーは!?

え、もしかして……俺は去年のカレンダーにイライラしてたんじゃね……? とここで気付いた訳だ。

 

オフィスの内装は地味だが、その理由は余計な色味を省いてストレスを減らすようにしているためらしい。

つまり卓上カレンダーに絵付きのものは適していないのだ。特に僕みたいに些細なことでイライラしてしまう人はダメなのだ。

それが分かっただけでも良かったのかもしれない。はぁ〜イライラする。

ツチノコとモグラ、見つけたらどっちがビックリするか

ツチノコを見つけた時とモグラを見つけた時は比べるとどっちがビックリするだろうか?

 

普通に考えたらツチノコだろうという気になる。モグラは存在してるけどツチノコは居るか分からないから見つけたら大ニュースだ。

 

でもちょっとだけ考えてみる……

 

ツチノコって蛇っぽい。というか、膨らんでるだけでほぼ蛇だ。ツチノコとデカめの獲物を飲み込んだ蛇を見分ける事が出来るだろうか?

キャンプに行ってツチノコを見つけた時「うわ! 蛇だ!!!」って間違えてビックリするような気がする。山を降りた後で(ひょっとしてアレはツチノコだったんじゃないか…?)って悩みそうな気がするし、その時にビックリは起こらない。

 

対してモグラである。モグラなんてアスファルトに覆われた地面の上で暮らしてればほぼUMAみたいな存在だと思う。モグラってマジでどうやったら見つかるの?

キャンプに行ってモグラを見たら「えっ!? モグラじゃん!!!!」って滅茶苦茶ビックリすると思う。「モグラって存在したの!?」みたいなこと言って驚く。

(ちなみに僕は野生のキジを初めて見た時「キジって田んぼにいるの!!?」って言った。)

 

そう考えるとツチノコよりもモグラの方が見つけたらビックリするはずだ。

 

いや、待てよ……

 

モグラとデカめのネズミを見間違える可能性があるぞ……

 

モグラって土の中にいるからモグラと認識しているんであって、地上に出てたらデカいネズミとほぼ同じでは?

蛇っぽいツチノコとネズミっぽいモグラだったらツチノコの方がビックリするのでは?

 

 

ツチノコか…………?

 

 

モグラがスコップ持ってたらすぐネズミじゃないって分かるな。

やっぱりモグラか……?

 

ツチノコモグラを同時に見つけたら……ビックリし過ぎてヤバイな。