魚の感想

twitterの外付けの感想置き場として使っています。

ちょうふくとじゅうふく

いきなりだが、重複は“ちょうふく”と読む。

 

しかし重複を“じゅうふく”と読む人もいるのではないだろうか。これは間違いではない。

重複を“じゅうふく”と読むのは慣用読みというやつで、本来の読み方ではないものの使用者が多いので定着した読み方だ。

 

本当は違うけど使う人が多いからその読み方もOKになるというのは言葉の柔軟性を表す面白い現象だと思う。

 

ちなみに僕も昔は“じゅうふく”と読んでいたが会社で矯正されて“ちょうふく”と読むようになった。今回はその話だ。

 

今回も暗い話だ。

 

 

 

だいたい1年前とかの話になると思う。

 2、3年ほど働いているといよいよ顧客とのやりとりをしなければならないようになってくる。やりとりは電話が多いけど、メールとかタスク管理ツールとかも使ってやりとりする。その時にビジネスメール調の文章を書く技術が求められる。

あとは会議の議事録だ。議事録も会議を行った取引先と共有するのでちゃんとした文章になっていなければいけない。会議の中であった口語的発言をビジネス的な文語的表現に直して文章を書く技術が求められる(最初からみんな文語的表現で発言すれば楽なのに……)。

 

さて僕はといえば、仮にもこんなブログを書いてインターネットに公開するような恥ずかしい行為をかれこれ3年も続けているにも関わらず、これらの技術についてはカス同然であった。

 

よって、メールや議事録については毎回上司に査収してもらい、その度に訂正を受け、ようやっとまともなビジネス的文章を作るのになかなかの時間を費やすのが常であった。

上司いわく、文章を書くにあたって、僕は普通の人よりも多くの時間を浪費しているとのことだった。

 

当時よく言われた……というか今もよく言われているのは「日本語苦手なの?」とか「プログラミングより先に日本語を勉強したほうがいいかもね」とかである。

 

いちおうちゃんと卒論も書いて大学を卒業して、毎日ツイッターでなんか書き、たまにブログまで書いてる僕にとってこういうことを言われるのは、昔はかなり悔しかったのだが、最近はなんかもう、どうでもよくなってきた。

あまり感情が動かない。あぁ僕は日本語できないんですよね〜知ってます知ってますって感じだ。

 

みなさん、みなさんが今読んでいる文章は日本語ができない人の文章です。

 

そんな僕だから、重複を“じゅうふく”と読んだ時も上司から指摘された。

「“じゅうふく”じゃなくて“ちょうふく”だからね」

 

実は重複を“じゅうふく”と読んでも別に良いということを知っていた僕は(えっ“じゅうふく”って読んでも良かったんじゃないっけ? でも確かに正しくは“ちょうふく”だった気がするな……)と思いつつ

「あっすみません……間違えました」

と謝った。

 

ビジネス文書には重複という言葉が多く出てくる(ひょっとしたら勘違いかもしれないが)。最初に重複の読み方を指摘された後も、僕の“じゅうふく”読みのクセはなかなか治らず、何回も重複を“じゅうふく”と読んでしまった。

そしてその度に

「“ちょうふく”ね」

「また“じゅうふく”って言ったよね? “ちょうふく”だからね」

「これ何回も言ったと思うけど、“ちょうふく”だからね」

「だから“ちょうふく”って前にも言ったよね? “じゅうふく”って読む人いないよ?」

と指摘された。

 

流石に“じゅうふく”なんて読み方をする人はいない、みたいなことを言われた時は少しムッとしたので

「いや……“じゅうふく”っていう読み方もあるんですよ……?」

とオドオドした感じで言い返した(僕は会社では基本的にオドオドしている)。

僕が言い返したものだから、軽くその場で「えっ? “じゅうふく”なんて読み方ないでしょ?」「いやいや……確かあるんです。あるっていうか、許されてるはずなんです」みたいなやりとりがあり、じゃあその場でネットで調べてみようということになった。

 

【ちょうふく じゅうふく】と調べると重複は“ちょうふく”と読むが、“じゅうふく”という慣用読みも存在する。と大量にヒットした。僕は自分の知識がちゃんと合っていたことにホッとした。

 

結果を見た上司は

「へぇ〜そうなんですね。いやぁ僕、頭悪いから知りませんでしたよ。いやぁ〜やっぱり〇〇君は僕と違って頭が良いから羨ましいな」

と、だいたいこんな感じで言ってきた。

 

上司は僕が何かの知識(具体的にはIT系以外の知識)を出すとこんな風に言ってくるクセがある。他方では日本語を勉強しろとか言ってくるのにこの言い方なので、煽り以外の何者でも無い。

 

煽られたものの、僕は、これで“じゅうふく”読みも許されるかな? と思って勝ち誇った気持ちだった。しかし上司は

「でも、このサイトにも書いてあるように、本来は“ちょうふく”読みが正しいんだよね? じゃあ“じゅうふく”と読むのはやめたほうがいいんじゃないかな? 正しい日本語を使ったほうがいいと思うんだけど、どう?」

と強めに言ってきた。

「えっでも、“じゅうふく”って読む人もいるみたいだし、言ってしまえば、あまり気にしなくても良いのでは……?」

「いやでも、正しい日本語は“ちょうふく”なんだよ? だったら“ちょうふく”の方がいいでしょ? 正しくないとわかっているのにあえて“じゅうふく”を使う理由は何?」

「理由と言われても……特に無いですけど……」

「じゃあ“ちょうふく”だよね」

「……はい」

こんな感じで、結局僕の“じゅうふく”読みは矯正されていくことになった。

 

それからもなかなか“じゅうふく”読みが抜けなかった僕は、何度か

「ここの部分がじゅ……“ちょうふく”しているみたいです」

みたいな言い直しをしていた。

 

一番困ったのは、電話でお客さんが“じゅうふく”読みをしてくる時だ。向こうが“じゅうふく”と言ってくる時はこちらが“ちょうふく”と言っていいのか、向こうに合わせて“じゅうふく”と言ったほうがいいのか分からなかった。

「こことここの表現が“じゅうふく”しているからなんとかならないですかね?」

「そうですね、こことここと、あとこの部分も……ち、“ちょうふく”しているみたいですね」

みたいな感じでおそるおそる喋っていた。

 

そんなこんなで、僕はなんとか重複を“ちょうふく”と読むようになった。

 

この矯正の反動として、僕は重複という言葉をあまり使わないことを心がけるようになった。

重複の代わりに「重なっている」「同じものがある」のような言葉をできる限り使う。

 

理由は2つある。

ひとつは、前述したように人によって読み方が違うからである。そして、人によっては正しい日本語を気にするからである。自分が正しい日本語を使っているということを気にすると言い換えてもいいかもしれない。

もうひとつは、「重複」という言葉を見ると、何度も何度も言われた「“じゅうふく”じゃなくて“ちょうふく”ね」という言葉や、検索結果の画面の前での無意味だったやりとりや、自分が日本語を勉強しないといけないことを思い出すからである。

 

そんな言葉の一つで、何をそんなに気に病んでいつまでも引きずっているんだコイツはと思う人もいることだろう。僕も自分で自分にそう思う。

自分にそう思うからこそ、心がけて逃げようとしている自分自身が気持ち悪くて二重で嫌になる。

 

ここであらためて言っておこう、重複は“ちょうふく”と読む。そうしないと怒られるから。

 

でも僕は、誰かが“じゅうふく”と読んでも気にしない。そういうことが大事なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、その上司は早急を“そうきゅう”と読む。

カレンダーの絵が下手だと仕事に支障が出るらしい

2020年は職場でイライラすることの多い1年だった。

3月に決定的な出来事があってから明らかにメンタルの調子悪くなっていった。そして徐々にイライラする機会が増えた。

 

イライラするのは些細なことだった。

  • 周りのキーボードのタイミング音が大きい
  • ホワイトボードのペンが薄い
  • マウスの調子が悪い
  • 電話が共用
  • 自分のスケジュールラインを表す色が赤系色(僕は勝手に自分のパーソナルカラーを青だと思っている)

とかだ。どれもちょっとの努力で改善されるのに実行できない。というか、些細なこと過ぎて最初は自分も「これにイライラしている」ということに気付かないのだ。

 

そしてつい最近、「あっアレにもイライラしてたのかも」と気付いた物がある。カレンダーだ。

 

卓上カレンダーの絵が下手クソだったのだ。それにイライラしていた。多分半年くらいイライラしていた。

うちの会社は年末になると色んなところからカレンダーを貰ってくる(挨拶周りでもらったりするのか?)ので、その中から選んだのだが、まさか自分が選んだカレンダーでイライラすることになるとは思わなかった。

 

選んだときは「味があっていい絵だな〜」とか思ってたのに、月替わりの下手クソな絵を毎日眺めているとウンザリするから不思議だ。

美人は3日で飽きるというが、美人でさえ3日で飽きるのにヘッタクソな絵を1ヶ月見続けなければいけないイライラに気付かないうちに耐えていたのだ。月が変わってもまた別のヘッタクソな絵が出てくるのだ。コノヤロウ。

 

2021年のカレンダーは、自分で買った。

コロナのせいで会社がカレンダーを貰ってこなかったからだ(そこにも何故かイライラした。どうしようもない)。

 

新しいカレンダーは絵が無い。

これを買ってビックリした。絵がないだけで書き込むスペースがこんなに広がるとは! めっちゃ使いやすいじゃないか! なんだこのカレンダーは!?

え、もしかして……俺は去年のカレンダーにイライラしてたんじゃね……? とここで気付いた訳だ。

 

オフィスの内装は地味だが、その理由は余計な色味を省いてストレスを減らすようにしているためらしい。

つまり卓上カレンダーに絵付きのものは適していないのだ。特に僕みたいに些細なことでイライラしてしまう人はダメなのだ。

それが分かっただけでも良かったのかもしれない。はぁ〜イライラする。

ツチノコとモグラ、見つけたらどっちがビックリするか

ツチノコを見つけた時とモグラを見つけた時は比べるとどっちがビックリするだろうか?

 

普通に考えたらツチノコだろうという気になる。モグラは存在してるけどツチノコは居るか分からないから見つけたら大ニュースだ。

 

でもちょっとだけ考えてみる……

 

ツチノコって蛇っぽい。というか、膨らんでるだけでほぼ蛇だ。ツチノコとデカめの獲物を飲み込んだ蛇を見分ける事が出来るだろうか?

キャンプに行ってツチノコを見つけた時「うわ! 蛇だ!!!」って間違えてビックリするような気がする。山を降りた後で(ひょっとしてアレはツチノコだったんじゃないか…?)って悩みそうな気がするし、その時にビックリは起こらない。

 

対してモグラである。モグラなんてアスファルトに覆われた地面の上で暮らしてればほぼUMAみたいな存在だと思う。モグラってマジでどうやったら見つかるの?

キャンプに行ってモグラを見たら「えっ!? モグラじゃん!!!!」って滅茶苦茶ビックリすると思う。「モグラって存在したの!?」みたいなこと言って驚く。

(ちなみに僕は野生のキジを初めて見た時「キジって田んぼにいるの!!?」って言った。)

 

そう考えるとツチノコよりもモグラの方が見つけたらビックリするはずだ。

 

いや、待てよ……

 

モグラとデカめのネズミを見間違える可能性があるぞ……

 

モグラって土の中にいるからモグラと認識しているんであって、地上に出てたらデカいネズミとほぼ同じでは?

蛇っぽいツチノコとネズミっぽいモグラだったらツチノコの方がビックリするのでは?

 

 

ツチノコか…………?

 

 

モグラがスコップ持ってたらすぐネズミじゃないって分かるな。

やっぱりモグラか……?

 

ツチノコモグラを同時に見つけたら……ビックリし過ぎてヤバイな。

コロナとゴジラへの感情が似てるじゃんって話

コロナウイルスの1日の感染者数が東京で1000人を超え出したあたりから妙なテンションになってきて、自分がコロナに抱いてた感情ってもしかしてゴジラへの感情と同じものなんじゃね? ということに気付いてしまった。

 

ゴジラへの感情というのはザックリ言えば「ゴジラ全部ぶっ壊せ〜!!」という感情である。ゴジラvsスペースゴジラは福岡が舞台なのだが、福岡在住の僕はこの映画が楽しくて「ゴジラ〜! もっと南の方に来い! 弊社を壊しに来てくれ〜!」と心の中で叫ぶ。

 

同じように、毎日コロナが猛威を奮っているニュースを見ると“もっとやれ感”があるのだ。

 

ゴジラを災害的なものとして捉える(昭和ゴジラはヒーローだったりするけど今回は置いておく)と確かに共通点のある二者だが、ゴジラはフィクションで、コロナは現実の脅威という決定的な違いがある。

ゴジラに踏み潰されることは無いが、コロナには明日にでもかかって死ぬ可能性があるのだ。なのに感情ではフィクションと同列のものとして受け取ってしまうのは何なのだろう? 状況への慣れ?

 

理性で考えれば医療従事者や失業するかもしれない飲食業者の苦労は分かる。そういう人たちの事を考えるだけでも「コロナもっとやれ」なんて言ってはいけないことは当たり前に分かる。

でもなんだろう? なんか、政治家とか大物社長や国際組織のトップがひいひい言ってるのを見るのが楽しい。人々が分断されていくのを見るのが楽しい。ツイッターで文句ばっかり言ってる人を見るのが楽しい。オリンピックが延期になったのが楽しい。どんどん縦軸に伸びていく棒グラフを見るのが楽しい。みんなマスク付けて歩いているのがディストピアみたいで楽しい。今までの社会が崩壊していく様を眺めるのを楽しんでしまっている。僕の脳の反社会的感情を形成するシナプスバチバチ働くのだ。

 

僕には失うような子孫も財産も仕事の名声も無い。家族はいるけれど遠くにいるので自分経由で感染させる心配もない。高齢者でもなく、糖尿病や肺炎も持っていないし、感染しても死亡率は低いだろう。そういう人間だからゴジラを見る時のようにこの現実を達観して見てしまっているのだろうか? それは危険思想だろうか? それとも当然の成り行きだろうか?

 

それか、逆に、めちゃくちゃ怖いのかもしれない。

怖くて耐えられないので、できる限りの感染対策をして自分の身を安全圏に置き、ゴジラのようなフィクションと同じものとして無意識のうちに考えて、達観して、精神の健康を守っているのかもしれない。

「いいぞ! 社会をめちゃくちゃにしてしまえ!」とか思ってるくせに感染対策とか手指の消毒とか最新の医療情報に敏感だし、接触確認アプリもちゃんと入れてるのは矛盾ではなくて、そういう心のメカニズムなのかもしれない。

だとすると、これは正常な思考?

 

なんだかもうよく分からなくなってきたのでやめるが、はっきりしているのは「いいぞもっとやれ!」的な感情はあんまり表に出さずに隠しておいた方がいいということだ。そういう感情をぶつける場所はフィクションに用意してあるので、わざわざ現実に向けて投げる必要は無いと思う(自戒を込めて)。

 

今のコロナの大暴れにエンタメ性を感じているのは僕だけでは無いと思ったのでこういうブログを書いてみた。これは、自分もそうだよという意思表明と、自分の感情を文章化したまとめだ。

 

連休明けのオタクにアニメの話を振らないで下さい

年明け初出勤。隣のデスクの人から「年末年始で鬼滅の刃をイッキ見したよ〜映画も見たよ、面白かった〜。〇〇君は何か見た?」と声をかけられ、咄嗟に頭に浮かんだのが

ごちうさ3期

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

・おちこぼれフルーツタルト

の百合豚オタクアニメデッキ3選しかなかった。

 

会社のおじさんとこのデッキでは戦えないので「あ〜いいですね〜僕も映画行きましたよ〜」みたいな感じでなんとなくお茶を濁して終わったのだが、後から考えてみれば別にアニメ限定の話題を振られたわけではなかったので、ガキ使とかお笑い番組を見てましたとか答えればよかったじゃないかと苦悶した。

 

ただ何故かその時はアニメデッキしか脳内に浮かんでこなかったのだ。

そこでそのままおちこぼれフルーツタルトの話を職場で始めないあたりが僕の社交性の上限だし、アニメデッキしか用意できないところが僕の社交性の下限だと思う。

ここら辺のどこかに僕の社交性が眠っている。

死んだペットの姿を再現できる記憶力、なし。

こんばんは、最近なぜか早朝に一瞬だけ目が覚める魚の精巣です。

 

今日は夢の話をします。現実には何もブログに書けるような色味のあることが無いので夢の話ばっかりでごめんね。

(そういえば夢の中は色が無い人もいるらしいけど、僕の夢はフルカラーだな。)

 

何も無い白い空間に立っているところからその夢は始まった。本当に白いだけで何も無いので、どれくらい広いのかもよく分からない。

「白いな……? 夢か?」と僕は思った。

たいていの夢の中で、僕は自分が夢の中にいることを自覚できている。いわゆる明晰夢というやつだ。

 

すると、足元になにかの気配がある。僕がその気配に気づいた瞬間、その生き物は僕の視界に映る前に、先手を打つように鳴き声を上げた。

「ぷごっ! ぷごっ!」

あっ、この声には聞き覚えがあるぞ……! ”プースケ”だ! プースケがいる!

 

”プースケ”というのは昔実家で飼っていたパグ犬だ。プースケは7,8年ほど前に死んでしまった。10数年生きたので犬の寿命的にはそれなりの高齢だったが、正直僕はプースケがそんなに長生きするとは思っていなかった。

 

その理由の一つは、プースケがかなりの肥満体だったからだ。散歩に連れて行くとすぐ疲れてしまって休憩しながら歩いたし(むしろ散歩を嫌がっていた)、息をするときも「プシュ~プシュ~」と空気が狭いすき間を通り抜ける時の音が出ていたし、鳴き方もなんか変になっていて「ぷごっ! ぷごっ!」という小さいブタみたいな声を出していた。

 

夢の中の鳴き声はまさしくプースケのものだった。とても懐かしい。

死んだペットが夢の中に出てくることが本当にあるとは!

僕はすぐに下を見た……

 

 

そしたらそこにこんなヤツがいた……

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あれ? ……なにこれ?

 

えっ、パグってこんなんだったっけ?

 

パグってもっとこう

 

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こんなんじゃない? 全然シワが寄る場所が違うんだが……

これ本当にプースケか?

 

f:id:shirako_dayo:20201219163111j:plain>「ぷごっ! ぷごっ!」

 

あっやっぱりプースケだ! 絶対プースケだ!

 

夢の中のプースケ(パグ)は僕の記憶力の影響を受けてパグとは思えない全体的にブヨブヨした肉のシワが寄っている謎の生き物に変貌していた。

ピクミンの敵みたいだ。もしくはデカいハムスターとオナホの間の子供みたいだ。

 

だが形以外は紛れもなくプースケなのである。

「プースケ~プースケ~」と昔のように呼ぶと、昔と同じように体を足にこすりつけてくる。プースケの毛は抜けやすかったので、短い毛がズボンにびっしり付く。

プースケは背中に爪を立ててゴシゴシすると気持ちいいのかよく喜んだ。同じように夢の中でも背中を掻くと「プキプキ」と鳴いて喜んだ。

プースケはしゃがむと飛びついてくる犬だった。しゃがむとやはり飛びついてきた。僕が夢の中で着ていたカッターシャツはやはり毛だらけになったが、夢の中なので別にいい。

 

しゃがんで近くで顔を見ると、やはりパグ犬の顔ではなく僕の想像力の無さが生み出したオナホみたいな犬には変わりなかったが、目は生前のプースケと同じだった。

 

プースケは右目を失明していた。夢の中のプースケも、生前のプースケと同じように右目が不自然に濁っていた。

 

プースケが右目を失明したのは僕のせいだ。

 

散歩中に僕が転んで、転んだ拍子に蹴りあげた石が右目に当たった。

プースケが「キャン!」と吠えて右目から血が流れた。

 

動物病院で診てもらうと、角膜が完全に破れていて、その時点ですでに失明していた。できることは手術で傷口をふさぐことだけだという。

病院でそれを聞いたとき、僕は気分が悪くなったと言って外に出た。病院の駐車場で何も考えられずボーッとしていた。病院の薬の臭いと罪の意識に耐えられなかった。

 

こんな大怪我をして、犬という生き物は正常に生きていけるのだろうか? もの凄いストレスを受けるに違いない。きっとプースケの寿命はほとんど消えてしまっただろうとこの時思った。

 

だから僕は、プースケが長生きするとは思っていなかった。自分のせいで死んでしまうんだと思っていた。

 

でもプースケは僕の予想に反してそれから何年も生きた。右目を失っても相変わらず食欲は衰えず、祖母があまり量を考えず与える犬用ジャーキーをバクバク食べるものだからどんどん太っていった。

 

家族はプースケが失明したことは自分のせいではないと言ってくれたが、わざとではなくても自分のせいだと思う。

家族は僕を責めなかったし、プースケも僕を責めることはなかった(犬なので責めようがない)。だから僕の罪の意識は宙ぶらりんになって、プースケの右目を見るたびに胸の中に何度も降りてきた。そしてだんだんそれは罪悪感から嫌悪感に変化していった。

 

そうだ、正直に言おう。僕はプースケが長生きしないと思っていたんじゃなくて、心の奥底では早く死んでしまえと思っていたんだ。そうすればもう、あの右目を見なくて済むから。

 

自分の本心に気付いたのはプースケが死んだ後だった。プースケが死んで何年か経ったあと、どこかでホッとしていた自分に気付いたからだった。

こういうことから見ても、自分がきれいな人間ではないことは明らかだと思う。もしもプースケと僕の立場が逆だったら……と思うと、ふざけんじゃねぇいい加減にしろよって感じだ。

 

そんなプースケが夢に出てきた。

もしも夢に意味があるとしたら、これはどういう意味なんだろう?

 

分からないが、夢の中のプースケは変な形をしていた、でも目は同じだった。

そして懐かしくて、可愛かった。

 

夢から覚めた後、僕は罪悪感と自分の冷たさを思い出したが、それでも寂しさがいくらか勝っていた。

本当に勝手だと思うができるならもう一度プースケに会いたい。プースケがいないってこんなに寂しかったんだ、ちゃんと好きだったんだ。

 

夢を見てから数日後、街で散歩しているパグ犬の子犬を見かけた。

その子犬は横断歩道を渡りながら飼い主の足に飛びかかりまくっていて、飼い主がすごく邪魔そうにしていた。

「あれ、プースケも子犬の時あんな感じだったな? パグ犬ってみんな”ああ”なのか?」

次もしも夢にプースケが出てきた時のために、僕は横断歩道を渡り終えたそのパグ犬の姿形をしっかり憶えておこうと思った。

勤労感謝の日って何に感謝すればいいんですか?

少し前に会社を辞めた人と会っていた。

 

今の会社は博多の方にあるらしい。

慣れないプログラム言語でも、優しい先輩が丁寧に教えてくれるらしい。

給料は必死で残業して手に入っていたくらいの金額が、残業無しで手に入るくらいになったらしい。

気楽だから楽しいらしい。

 

(僕が今いる)会社を辞める時、社長や役員の説得があったらしく、待遇を良くするから考え直さないか? などと言われたらしい。その人は「待遇じゃ、無かったんだよなぁ……問題は」とボヤいていた。

 

それを聞いて、今の会社では辞めると言い出すと偉い人から説得があるということと、辞めると言い出すと待遇が良くなるということを知ってしまった。

そして、仮に、自分が辞めると言い出した時に説得も待遇の改善も持ちかけられなかったら落ち込むなと思った。

 

僕は色々聞きたいことがあったつもりだったのに、特に何も聞けなかった。

「そもそもなんで辞めたんですか?」

とか

「辞める時ってどうやって切り出せばいいんですか?」

とか

「転職先ってどうやって探しましたか?」

とか……

 

聞きたかったけれど、自分の質問が全部自分本位だったので気が引けた。あとアルコールの量がもう少し足りなかった。それに数日前から手首が痛くて、曲げるたびに痛みが走って集中できなかった。

 

結局、「彼女と最近どうですか?」みたいな質問をしたんだと思う。そろそろ結婚しようと思っているよ、みたいな話の方向にその後移り変わっていったから、多分そんなことを聞いたのだろう。

 

僕はその人みたいになりたいなと思ったが、その人のどの部分に憧れるのかイマイチ分からない。

新しい職場に満足しているところなのか、辞める時に引き止められるほど必要とされていたところなのか、結婚するところなのか。よく分からない。自分が何を求めているのか、何を求めればいいのか分からない。

 

ただその人は前を向いているような気がした。全体的に明るい雰囲気をまとっていた。

そういうなんとなくの雰囲気にあてられて、電灯に群がる羽虫のように引き寄せられていたのかもしれない。

 

お店の椅子から立ち上がるとき手を着いたら手首が曲がってめちゃくちゃ痛かった。

その手で敬礼しながら「お幸せに!」なんて言ってみたり、「まだ分かんないからね!?」なんて言われてみたりして、機会があればまた会おうみたいな話をして、解散した。

 

そういえば、今日はいい夫婦の日らしい。

そして明日は勤労感謝の日だ。